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2015-09-04 (Fri)
夢枕獏氏の『陰陽師』シリーズには、本質をついた素晴らしいセリフや
描写が多々出て来る。

今日は、シリーズの中の『瀧夜叉姫』(上下)から
自分であること、人間としてあることに関連したテーマで
数カ所引用して書いてみようと思う。


実を言うと、個人的には『陰陽師』シリーズの中で
この『瀧夜叉姫』のような長編よりも、他の短編の雰囲気の方が
私には合っているようだ。
(これは単なる私個人の好みなので・・・)

けれども、この『瀧夜叉姫』には素晴らしい内容の会話が
多く出て来るため、一部を紹介してみたいと思う。


まず、少し長いけれど、安倍晴明と源博雅の会話から抜粋したい。

晴明の家で、二人が酒を飲みながら過ごしている際
博雅が庭の見事な桜を見て、
「できるものなら、おれもあの桜のごとくにおれでありたいものだな」
と言ったところ、以下の会話が続く。

 「どうした?」
 博雅は言った。
 「おれが、何か妙なことを言ったか」
 「いや、妙なことなど言ってはおらぬ」
 「では、どうしたのだ」
 「おまえが今、おもしろいことを言うたからさ、博雅—」 
 「おもしろいことだと?」
 「桜が桜であるごとくに、博雅は博雅のごとくにありたいと、
  そう言ったではないか」
 「言ったか」
 「言った」
 「しかし、何故、それがおもしろいことなのだ、晴明」
 「人は、なかなか、今おまえが言うたごとくには生きられぬ」
 「うむ」
 「誰ぞを手本とし、その誰ぞのように生きようとすることはあっても、
  己のごとくに生きようとは、人は思うたりはせぬものだ」
 「そういうものか」
 「そういうものさ」
 「おれには、あの桜の咲き方も、それから散り方も、妙に好もしくてなあ」
 「ほう」
 「きちんと咲いて、きちんと散る。桜は、桜として咲くことによって
  桜として何ごとかをまっとうし、そしてまた桜として枝から離れ、
  散ってゆく・・・・・・」
 「うむ」
 「どこから見ても桜だ。桜は、桜のようにしか咲くことができぬ。
  桜のようにしか散ることができぬ。まったく、桜はなんとみごとに桜であることで
  あろうか」
 「—」
 「そう思っていたら、自分もまたあの桜のごとくに自分でありたいと
  思うたまでのことなのだ」

 (中略)

 「桜だけではないということさ。桜がその桜のごとくに己をまっとうしている
  ように、梅は梅で、己をまっとうしているということではないか」
 「うむ」
 「蝶は蝶のごとくに。牛は牛のごとくに。鶯は鶯のごとくに。
  水は、水のごとくに—」
 「博雅は博雅のごとくに—」



神秘体験や悟りなど、今の状態や自分というものから離れられることを求めて
あれこれと奔走しているときというのは、どうしても「今の自分ではない
もっと凄い自分」というものを頭で思い描き、その幻想を追い求めて
「今の自分」から離れていってしまっている状態だと言える。

生命の本質、真の自己は今ここにあるものであって、
ここ以外にはないため、「もっと凄い自分」を追い求めれば追い求めるほど
本質的なものから離れてしまい、余計に苦しみが増して行ってしまう。

放浪息子の例えではないが、「自分」という一人の人間としての在り方から離れ
あちこちと真理や真の自己を探しまわった挙げ句、結局はここに最初から
全てあったのだと気がつく、自分自身に戻って来る、というのは
何とも切なく、また、ありがたい。
どんなに自分というもの、生きているということが苦しくて嫌であったとしても、
自分であることや人間であることが嫌になってしまっていたとしても、
それでも、生命の本質、真の自己は最初から最後まで
いつの時でもずっとここに「自分」の帰りを待っていてくれたのだ。


本に戻ると、晴明や博雅以外にも、藤原純友や平維時など他の登場人物も
色々と出て来て(詳しい内容はここでは省くけれど)
次のような場面がある。
ここでも、博雅が良いことを言っている。

 じわりと、爪先ひとつ、純友が前に出る。
 「維時よ、今、何故と問うたが、逆におれからおまえに問おうでは
  ないか—」
 「わたしに?」
 「維時、ぬし、何のために生きておる」
 「なに!?」
 「そなた、何のためにこの世に生を受けたのじゃ」
 「む・・・・・・」
 太刀を握ったまま、維時は言葉に詰まった。
 「答えられぬか」
 純友の眼が、博雅に移った。
 「では、博雅殿、ぬしはどうじゃ。何のためにこの世に生を受けた」
 「な・・・・・・」
 博雅が、答えにつまった。
 「博雅、たぶらかされるな。話せば、純友殿の呪(しゅ)にかかるぞ」
 晴明が、醒めた声で言った。
 しかしー
 「純友様」
 博雅は顔をあげて答えていた。
 「あなたは、花に問うおつもりですか」
 「花?」
 「風に問うおつもりですか」
 「ー」
 「花に、そなたは何故そこに咲くのかと問うおつもりですか。
  風に、何故吹くのかと問うおつもりですか」
 「ほう・・・・・・」
 「花は、そこに、在り、咲き、花であるだけで、充分に、満ち、
  足りております」
 「おもしろい、そなたは花か、博雅殿・・・・・・」
 「わたしは、人です」
 「ー」
 「花がそうである如く、人であることをまっとうするために、
  わたしはこの世に生じたのです」
 はっきりと、高い声で博雅は言った。



そう、この最後の「・・・人であることをまっとうするために、
わたしはこの世に生じたのです」という言葉に、探求者が行き着く(戻って来る)
ところが簡潔に表されていると感じる。


そしてまた、探求中の時というのは、とかく人間臭い部分を嫌いがちで
嫌だと思ってはいけない、何かを怖いと思ってはいけない、
苦手だと思ってはいけない、不快な感情を抱いてはいけない等、
そういった性質を持つ自分を「まだダメな自分」と判断してしまい、
受け入れることが出来ないでいることが少なくない。
そして、そういった人間臭い性質を排除し、人間離れした存在になれるよう
日々「浄化」に励んだり、様々な修行をしたりする。

もちろん、それが悪いわけではなく、そうしたいのであれば
真剣に取り組めば良いし、また
プログラミングによる自動反応を見破るべく
日々自己に向き合うことも、有用なことだと感じている。

でも結局のところ、この人間として生きる覚悟が決まったら
そういった人間的な性質も丸ごと愛おしく感じられるから不思議だ。

自分というのは、もう既に自分であって、これ以外のところに
自分というものはないし、「もっと立派な自分」というのも存在しない。
既にそうであるものを、更にそれになることは出来ない。

禅の逸話で、こういうものがある。

 馬祖は熱心に坐禅に励んでいた。
 そこで師の南岳が、何をしているのかと問うと、
 「坐禅をしています」と馬祖は答えた。
 そこで師が「何故坐禅をするのか」と訊いたところ
 「仏になるためです」と答えた。
 すると、師は何も言わず、そこにあった石瓦を拾い、ゴシゴシと磨き始めた。
 「何をなさっているのですか」と馬祖が尋ねると
 「石瓦を磨いて鏡にしようと思って」と師は答えた。
 そこで馬祖はハッと気づいて悟った。


と、こんな内容のものであるが、既に自分であり、
仏である自分が、何かをしたところで、改めて自分なり仏なりになれるものではなく
今ここに既に真の自己として存在しており、完全なのだ。

もちろん、だからといって、何でもかんでも受け身で
消極的に生きるのか、というとそうではなく、
人間性を受け入れた上で、この人間に備わっている
思考という機能も使い、より創造的に生を享受しながら過ごす
というのが、人間という生をまっとうするのに相応しい生き方だと思う。

和田重正氏の『もう一つの人間観』という本の中で
真の自己に気がついたら、もう大脳は必要ないかというとそうではなく
そこからが大脳が積極的に活躍出来るものであるということ、そして
生命の方向性と大脳・思考の方向性が一致して生きることが出来るようになる
ことの重要性について書かれていたけれど、まさにその通りだなあと感じる。


陰陽師の本の引用に戻ると、今回紹介している本の中に、
晴明と博雅のこんな会話が出て来るところがある。

 「保憲様は、実は浄蔵様が苦手でな」
 「あの方にも苦手があるのか」 
 「人だからな」
 「人?」
 「人には、誰でも弱みや苦手はあるということさ」
 「おまえはどうなのだ、晴明」
 「おれか」
 「何か苦手か弱みはあるのか」
 「人だからな」



どんなに修行を積んだ人でも、真の自己に気づいている人でも
人間である限り、何らかの苦手や弱みといったものはあるのが普通だ。
もちろん、「無い」という方もいるかも知れない。
それはそれで素晴らしいけれど、人間らしくあるのも、それもまた素晴らしいと
感じる。



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