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2015-08-23 (Sun)
これまで、ダイレクトパス関連の記事では「事象に意味はない」
ということを書いた。

確かに、非二元、空観からすればその通りなのだけれど
それだけではまだ、真実・世界の一面しか言い表せていない。

本当に大切なことは、
「全てに意味はない。けれども、実はその全てに意味がある」
ことに気がつくことではないかと感じている。


ダイレクトパスや体感覚による検証が進んで、
思考や感情の固まりがほぐれて来るにつれ、
いかに自分が普段、恣意的な関連づけや観念のフィルターによって
世界を捉えて体験していたかがわかるようになって来る。

また、そういったものから自由になるにつれ
「何だ、何にも意味はなかったんじゃないか!」と
解放感を覚える。

そして、「もう自分は自由だ、何にも縛られる必要はないんだ!」
と感じたりもする。

そして、つい周囲の人にも「起こる事には何の意味もないんだよ!
全て意味はないんだよ」と言いたくなってしまう。

けれども、ここからが大切なところだと感じている。


ところで、私が初めて出会った禅の公案は、こんな内容のものだった。

 趙州和尚のもとに、一人の僧がやって来て、真剣にこう言った。

 「私は弟子入りしたばかりの新参者です。どうかご指導をお願い致します」

 趙州、「あなたは朝飯を食べましたか、まだか。」

 「朝飯はすませました」とその僧が答えた。

 「そんならば、あなたの茶碗を洗ったらよかろう。」

 その答えを聞き、その僧は見性した。



というものだった。


私はこの公案に出会った際、「ハッ」として、涙がハラハラとこぼれた。
心と体では何かに気づいたのだろう、「ああ、そうなのだ!!」と
切なく、また懐かしくもあり、涙が止まらない。
けれども、頭では何のことなのか、サッパリ分からない。

面白いことに、私の心と体ではこの公案の意味することがわかっていたのに
知識や頭を使って生きることにスッカリ慣れてしまっていた頭でっかちの
私には、理解出来なかったのだ。

いわば、「心と体」に対し、「頭」が別に孤立して存在しているような感じであり
頭と心、体が分離してしまっていたのだ。

そのため、心と体が何かをわかっているのは感じるのだけれど
それがどうしても頭に伝わって来ず、「翻訳」出来ない。
そのため、ただもう切なくて懐かしい思いだけが胸にあふれ、
涙がハラハラこぼれるばかりの中で
頭だけが取り残され、もどかしくて仕方なかった。

その後しばらく経って、師匠のもとで指導を受けるご縁に恵まれ
この公案の意味するところがわかるようになって行ったものの
最近になって特に、この公案の素晴らしさがより身にしみるようになって来た。


「ご飯を食べたらお椀を洗う」という、この何の変哲もなくただ当たり前のこと、
そこに全てがある。

真理というのは、どこか日常から離れた遠い神秘の世界にあるのではなく
今ここに、日常の中の出来事や動作、全て一つ一つの中にあるのだ。


別の禅の逸話で、ある僧が「仏様とは何ですか?」と師に尋ねたところ
師は「お前だ!お前だ!」と言って、その僧の頭をポカポカ殴った
というものがある。

その逸話を知った当時は、「???」という思いだったものの
最近では、この「お前だ!お前だ!」という逸話の状況を思い浮かべると
師のそれを伝えようとする一心の想いが伝わって来るようで
思わず胸が熱くなり、感動を覚える。
(殴るという行為に関する様々な解釈は置いておいて)

生(せい)の源であれ、非二元であれ、「これ」であれ、仏様であれ、
呼び名は何でもよいけれど、仏様という言葉を使うとすると
仏様の仏像だけが仏様なのではなくて、目の前のもの何であれ仏様であって
この肉体と思考・感情から成り立っている「私」という現れも
目の前の「あなた」も、全てが全て仏様なのだ。

「仏とは何か」という問いに対しては、他に
「麻三斤」や「糞かきベラ」など、様々な答え方がされている逸話があるが
どれも、生命の源・真の自己のことを指しているのであって
この現象世界で現れている姿形や名称は異なっていても
その本質は生命の源であり、真の自己であり、仏様なのだ。

もちろん、上のそれぞれの逸話とその答え方には様々な解釈が可能だけれど、
少なくとも、どんなものであれ、同じ本質のものであるということには
変わりはない。


安谷白雲禅師の『禅の心髄 無門関』という本の中で、
次のような記述がある。

 (・・・)禅門では一定の符牒を用いないことになっている。
 禅以外の宗教では皆一定の符牒を用いる。
 キリスト教ではゴッドといい、ユダヤ教ではエホバといい、
 マホメット教ではアラーといい、浄土教ではアミダ仏といい、
 真言宗ではビルシャナ仏といい、華厳宗では真如といい、
 天台宗では妙法というように、皆それぞれ決まった符牒を用いるが、
 禅門では符牒を決めない。

 なぜ決めないかというと、符牒を決めると、それが一つの概念となって、
 活きた事実を見失ってしまう。
 だから禅門では、その時、その時、そこに有り合わせのものを符牒に使う。

 無字、狗子、野狐、指、鬚、車、柏樹子、麻三斤、何でも手当たり次第に
 これを使って、宇宙は一つだという真の事実、すなわち真の吾れを
 あらわすことにしている。



この、「なぜ決めないかというと、符牒を決めると、それが一つの概念となって、
 活きた事実を見失ってしまう。」という一文に
生命の活き活きとしたものが言葉や概念で表せない理由が
非常に明瞭に書かれており、感動した。


ところで、以前、どこかで「公案なんてものは意味がない。
勝手に問題を作り出しておいて、その問題に苦心する。
もともとそんな問題に関わらなければ、問題はないのだから
苦心する必要もなく、自ずと問題は解決され、自分は自由だ。
だから公案なんてものを出されたら、”自分はそれには関わらない”
という態度を示し、わざと質問の答えとは見当違いの答え方をすれば良い」
といった解釈が書かれていたのを読んだことがある。

確かに、この解釈には一理ある部分もある。
先日書いた『問題から離れる』という記事の内容は、思考によって作り上げられた
「問題」から離れることで、既にある完全性に気がつくというものだった。
そういった意味では、この解釈に通ずるものがあるとも言える。


しかし、それでは公案の持つ役割の肝心な部分を見落としてしまっているし、
また、一見質問の内容とは無関係に思えるような返答内容や行動であっても
それが生命の本質の中でパッと自然に出て来た場合と、
「お前の出す問題には関わらないということを見せてやろう」という思惑のもと、
意図的に見当違いな答え方をするのとでは
その内容も質においても、全く似て非なるものになってしまう。

専門家でも指導者でもない私が公案の意義について
あれこれと述べることは差し控えるが、少なくとも私自身の実体験から感じたことは、
公案というのは、真剣に取り組むことによって、生きた生命、生命の本質というものに
気づくことが出来、また、その他様々な洞察が起こるきっかけとなりうる、
大変ユニークで有用なツールだということだ。


もちろん、公案は生(せい)の源、本質がわかるための一種のツールに過ぎないため
それがわかるようになるためには、何も公案でなくとも、
他には様々な方法があるし、公案こそが絶対、などというものでもないと言える。

それでも、かつて自身の生命を懸けて全身全霊で真理を求めた先人たちの
真剣な想いとそのやり取りに触れることが出来、
思わず胸に熱いものが込み上げて来るし、先人たちの生きた問答に触れられる、
この貴重な機会とご縁をありがたく思わずにはいられない。


話を本題に戻すと、思考での判断や勝手な結びつけ・関連づけから離れると
世界はありのまま、ただ在るがままであることがわかり、
そこには恣意的な意味づけがないため、全てには意味はなかった、
ということがわかる。

しかし、それではまだ「向こうに行ったきり」の一方通行のままである
と私は感じる。

その全てが透明で自由で意味がない世界、それがわかったら
今度はその生命の源、本質が何かを表現すべく、姿形を変えて現れている
この現象世界に目を向けると、ここで現れている全てのもの一つ一つが
ちゃんと生命の源、本質、仏様であることがわかる。
目の前の小さな消しゴムであっても、そこに全世界がギューッと「濃縮」され
そこに生(せい)の本質、全世界が顕現されているのが感じられる。

すると、どんなに些細なことであっても、日常の動作一つ一つが本質、仏様であり
意味があると言える。


「一つ一つに意味がある」と言っても、「何でここに白い机があるのだろう?」
「どうして間違って削除してしまったのか?ここにどういう意味があるのか?」
など、一つ一つの現象に関して分析し、そこに意味を見いだそうとすることでは
ない。

もちろん、日常で似たパターンが何度も起こったりすることに
注意を向けることで、そこから何かしらメッセージを感じたり、
洞察が起こることもあるため、何か意味があるかと考えること自体が
必ずしも悪いことではない。
むしろ、それが有用に働くことも少なくない。

けれども、今回の記事で扱っている意味での「全てには意味がある」というのは
起こること一つ一つ、自分がすること一つ一つ、
それらは生(せい)の本質がそのまま現れたものであるため、
「全く意味がない空虚な幻想」なのではなく、活き活きとした
生きているもの、「生命そのもの」であるということだ。


だから、何をするにしろ、ご飯を食べ終わったらお茶碗を洗うといった
何の変哲もない動作であっても、そこに全てが詰まっている、素晴らしいこと
なのだ。

そして、そういった一つ一つのことを丁寧に生きることによって
何でもないような単純な動作や行為が純粋な歓びの体験に変わる。
ただの日常を生きながら、生命そのものとして在ることが出来る。


このように、日常の一つ一つ、目の前の一つ一つに意味があることがわかり
活き活きとした生命の現れをそのまま存分に生きること、そして
この人間であるという役割や人間性・感情などを全てひっくるめて
世の中で他者とともに「普通に」生きること、
それこそが、「一度は向こうに行ってしまったものの、そこから戻って来る」
ことだと感じている。

そういった意味でも、また、例えば「非二元」といった特定の符牒を用いず、
目の前の物を何でも活かし、生(なま)の活き活きとした生命を取り扱う
工夫がなされているといった意味でも、やはり私は禅が好きなのだなあと感じる。
(自分でこのブログに非二元といった言葉を使うことが多々あるので
 矛盾してはいるのだけれど・・・)
 

もちろん、様々な錯覚を見破ることが出来るように導いてくれ、
また、最後の二元性の壁を突破する手助けをしてくれたダイレクトパスや
いわゆる非二元と呼ばれる教えには、心から感謝の気持ちで一杯だ。

ただ、非二元と呼ばれる教えにありがちな(全部が全部ではないけれど)
「向こうに行きっぱなし」では、まだ真理の半分でしかないと感じている。
(もちろん、それが悪いわけではないけれど・・・)


そういえば、お勧めの本でも紹介しているダイレクトパス関連の本の著者、
グレッグ・グッドの新刊がもう少しで発売されるらしい。
著者に尋ねたところ、まだ出版社の都合で出版日が確定されてはいないものの
ダイレクトパスによって「目覚めた」後に必要なプロセスに関するもののようで
「良い意味で、ダイレクトパスを崩す本」であり、
これまでには書かれていなかった様々な面、例えば道徳の大切さなどについても
触れているとのことだ。

どういった内容なのかはまだ本を読んでいないので分からないけれど、
ダイレクトパスによる「目覚め」で
「向こうに行きっぱなし」になってしまいがちなものを
「こちらに引き戻す」ための内容なのではないかと、楽しみにしているところだ。


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