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2015-08-20 (Thu)
生きていれば、時には様々な「問題」が起こり、
とても大変な思いをすることもある。

色々と頑張っても、どうしても解決策が見えて来ない時もある。

そんな時の鍵の一つは、「 ”問題” から離れる」ということだと感じている。


まだ探求中だった頃のある日、ある出来事が起こり、
それがなかなか解決されないでいたことがあった。
自分が相手に対して「誠実に」対応してもしても
相手は余計に暴走するばかりで、事態はどんどんこじれて行った。

その時、非常に悩んだ。

「どうしてきちんと説明しているのに、それが通じないんだろう?」
「どうして誠意が伝わらないんだろう?」
「何でこちらが言ってもいないことを勝手に作り上げ
 相手は一人で興奮して攻撃的になっているのだろう?」
「何であんなこと言われなくちゃならないんだろう?」

などなど、朝から晩まで日々こういった思いが頭をぐるぐるし
嫌な思いでいっぱいだった。


そんな時、何かの拍子にふとあるイメージが浮かんで来た。
それは、私が目の前の水を張った洗面器に顔をつっこみ
「苦しい、息が出来ない!」ともがいている感じのものだった。

そこで気がついた。

洗面器から顔を上げれば良かったのだ!


私はわざわざ小さな洗面器に顔を突っ込んで
「息が出来ない、苦しい」ともがいて苦しんでいたのだけれど
顔を上げれば空気はそこら中に満ちていて、何の問題もなかったのだ。


それがわかると、スーッと色々な思いがただ自分を通り抜けて
行った。

そして、自分がいかに「問題」に囚われていたのかに気がついた。


また、今回のテーマからは逸れるけれど、この件に関しては
更に自分の「誠実であるべき」という観念に囚われていて
本来の自然な在り方や対応が出来ていなかったことに気がついた。
(以前、別の記事でも触れたことがある)
そしてそのプログラミングから外れることで、思いがけない方法で
自然と円満な解決へと展開して行った。


話を元に戻すと、何であれ、何かの思考や信念、問題に囚われていると
一人だけ自分用の洗面器に顔を突っ込んだ状態になっていて
苦しいし、本来既に完全である全体像が見えなくなってしまう。
もちろん、普通の一人の人間であるから、物事全ての全体像が
いつでも把握出来るわけではないのだけれど、それでも
完全な全体の一部として自然な流れに乗ることが出来、
余計な「思惑」や「戦略」なくとも、勝手に最善の方向へと
ことが展開してくれるのだと気がついた。

これは、体験されたことがある方はよくおわかりだと思うのだけれど
「あれ?自分が一生懸命あれこれ必死にやるよりも
ずっと上手く行く」という不思議な感覚を覚える。


以前に読んだ『悟りの錬金術』という本の中に、
とても良いことが書かれていた。

 もどかしさが起きたら、その場所を見て下さい。
 その場所がまさに私の場所です。
 つくられたものも「私」ですが、つくり出すのも「私」で、
 つくる前の状態も「私」です。

 なぜ、つくられたそれだけを「私」だと思いますか?
 つくり出す私、つくる前の私もいます。

 すべてのことを決定するときには、
 つくり出す前、つくり出しているそれ、そして
 つくられたそれ、その三つすべてを見てください。

 どんなことでもその三者会談を経たものだけが
 真実のものになるのだと見てください。



この本では、「何でも自分が創り出している」というスタンスで
書かれているのだけれど、私はどちらかというと思考にしろ意図にしろ
「勝手に浮かんで来る」といった感覚の方が強いため、
大抵この「勝手に浮かんで来る」といった表現の方を使うことが多い。

いずれにしろ、どちらでも同じことを違った角度で異なった表現で
表しているに過ぎないため、「自分が創り出している」のでも
「勝手に浮かんで来る」のでも、どちらでも構わない。


今回は上の引用文で意味されていることをちょっと変えてアレンジし
上の文のように「私」についての状態を見るのではなく
「問題に囚われている状態」といった観点から書いてみたい。

上の例に戻ると、例えば
「何であんなこと言われなくちゃならないんだ?」
という思いで気分が悪く、頭からその考えが離れないとする。

けれども、この考えが浮かんで来る前というのは
そんな嫌な気分に支配された状態ではなく、普通の「中立的」な状態だった。

つまり、本当のところ

1. この考えが浮かんで来る前
2. この考えが浮かんで来てから、その考えが留まっている間
3. この考えが消えた後

という3つの状態がある。

それを、何か考えが浮かんで来ると、ついその考えや問題の中に
どっぷりと囚われてしまう(洗面器に顔を突っ込んだ状態)。

けれども、それは3つある状態のうちのただの1つに過ぎないのだ。
そのただの1つの状態だけを「選んで」そこに囚われてしまっている。


もし何らかの思考や問題に囚われて苦しい場合、
一度こう考えてみよう。

「この思考が浮かんで来る前、問題はあっただろうか?」
「この思考はいつかは消えてなくなる。その後はこれは已然として
 問題のままであろうか?」

何だかわかりにくいかも知れないけれど、つまり言いたい事は
元々は、その考えや問題がない状態というのもあるのに
その考えや問題に囚われてしまっている時というのは
本来は3つある状態のうちのたった1つのものに
しがみついてしまっている状態だ、ということに気がつくことである。


これに気がつくと、自然と「あ、わざわざそんなことを」
と気がついて、自然と思考や問題から離れやすくなる。


また、「この思考が浮かんで来る前、問題はあっただろうか?」
といったことを自問すると、
結局は問題というのは、自分の頭で創り出したもの
(または勝手に創り出されたもの)であって
「問題」といった実体のあるものではないことがわかる。
全ては頭の中にあるものに囚われ、それにしがみついてしまっている
ことから起こることなのだと言える。


頭の中の「問題」から離れると、自ずとその既に完全な世界の中で
自然と物事が最善なように展開して行くのがわかり、また
生(せい)の本質のダイナミックさが感じられるようになるため、
試してみると面白いかも知れない。


(注:ここで書いた方法は、ダイレクトパスのやり方とは相反する部分も
 あるため、ダイレクトパスでの検証方法とは別物だと捉えた方が
 混乱しにくいかと思います)


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