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2015-08-11 (Tue)
探求生活をしていた頃、悟りの道には「自力門」と「他力門」の
どちらが適しているのかということについて、そしてそれ以外のことでも
全ては「自力」なのか「他力」なのか、どちらが正しいのか
かなり悩んだことがあった。

一体自分は「生きている」のか、それとも「生かされている」のか
どちらなのかと、あれこれ考えた。

自力門の代表的なものとも言える禅に取り組んでいた頃は
一つ公案が解けるにつれ、「やったぞ!」というような達成感を感じ
いつの間にか「自分は凄い」「自力門こそ本物」などと感じるようになっていた。

でも今になってわかるのは、結局つきつめて言えば、自力も他力も
同じことだったのだ。


私の師匠もよく仰っていたことだけれど、自力の道を歩んでいる人には
いわゆるエリート意識を持った人や、優越感を抱いている人が少なくなかった。
もちろん、全員ではないけれど、多いと感じていた。

自分に厳しく、様々な修行を行って「成果」が出せている人ほど
そういった修行や取組みが出来ない人に対し、「根性が足りないからだ」
「やる気が足りない」「自分たちの方が優れている」などとジャッジしてしまいがちだ。

もちろん、その気持ちはよくわかる。
自分はこんなに努力して頑張っているのに、何であの人たちはあんななんだろう、
頑張りが足りないから成果を残せないのだ、と思ってしまうのも無理はない。

私も長い間、そんな風に感じていた傾向があった。

けれども、ある時に気がついた。
一番重要なところを見落としていたのだ。

「自分が自分の力と意志で修行している」という感覚があっても
実はその「力」と「意志」自体が生(せい)の源が形を変えて
現れて来てくれたものであり、「頂いた」ものだったのだ。

それを、あたかも自分が沸き起こさせているような気持ちになるため
つい「自分はこんなに努力出来るけど、ああいう人たちは気合いが足らずダメだ」
という判断をするようになってしまう。
これは、大きな勘違いだったのだ。

以前に、自由意志の錯覚について記事を書いたことがあったけれど
そこで検証してもわかるように、「自力」と思っているものでも
実は錯覚であって、生(せい)の源がそういったエネルギーとして
現れてくれているものに過ぎないのだ。

だからこそ、ありがたいのだ。

この肉体と思考・感情の集まりである「私」という個人の中に
何かを努力する強い意志や力といったものが湧いて来てくれたこと、
それはこの「私」が偉いからとか優れているからとかではなく、
縁あって、生(せい)の源がそういった形として現れて来てくれたものだからだ。

結局、自力と呼ばれるものであっても、他力と呼ばれるものであっても
元は生(せい)の源の力そのものであって、同じものなのだ。

ただ、現象世界での現れ方が異なっているだけだったのだった。

これがハッキリとわかるようになるまで、随分時間がかかった。


探求中、禅やアドヴァイタといった「自力」系と思われるものを中心に
取り組んでいた私だったけれど、ある時から、それでもいつも心の隅にあったのは
歎異抄だった。

歎異抄を読むと、涙が出た。

「善人なおもて往生をとぐ。なんぞいわんや悪人をや」とは
何と深く、慈悲にあふれた言葉だろう、と・・・。


いわゆる「自力門」系の人は、何らかの縁あって
そうすることが可能となった。
けれども、世の中にはそういった縁がない人や、心の苦しみを抱えていても
「自分に合った」方法や解決策に巡り会えない人も少なくない。
そういった人の中には、苦しみのあまり(自分が苦しんでいることすら
気づけないほどの人もいる)、自分でもコントロール出来ないような
言動をしてしまったり、度を超せば自分や他人に危害を加えてしまったり
することもある。

自分だって、何かの縁が違っていたら、一歩何かが違っていたら
同じようになってしまっていたかも知れない。

そう思うと、今こうして自分がここまで生きて来られ
こうして在ることが出来ることが、奇跡のようにも感じられる。
本当にたった一つの歯車がどこかで狂っていたら
全く違った風になっていたかも知れない。

だからこそ、歎異抄の言葉がしみじみと胸に染み入る。


何故私が歎異抄を読むようになったかというと、元々は
ある出来事がきっかけだった。

数年前のある時期、私は何故か急に阿弥陀様という名前を聞くと
胸が一杯になって涙が止まらなくなるという現象が続いていたことがあった。
(それでも、阿弥陀様というのが何なのかは全く知らないでいた)

そしてある日、ドーンッと胸の辺りに何かが大きく爆発したような感覚が起こり
「この世はみんな阿弥陀様で満ちている!」ということが直にわかり、
しばらく、その深い感覚に包まれていたことがあった。
(師匠は、それを「感応道交」という言葉があると、教えて下さった)

これは変な話で、上にも書いたように、私はそれまで阿弥陀様というものが何なのか
全く知らず、更に実家は禅の曹洞宗系だったため、阿弥陀仏には縁もゆかりも
なかったのだ。
それなのに、何故突然こんなことが起こったのかわからなかったのだけれど
とにかく、この世は阿弥陀様の深い慈悲で満ち満ちている、
ということがハッキリわかった体験となった。

その後、気になって阿弥陀仏関連で色々と調べてみて、
そこで初めて阿弥陀仏の特質について、そして更に親鸞や歎異抄といったものを
知ることが出来た。

ただ、正直言うと、当初は
「なんだ、阿弥陀様なんていなかったのか、単なる作り話じゃないか」
と思ってしまった。

実際のところ、「阿弥陀様」というのは方便であって、
実際にそういった「存在」がいるわけではない。
ただ、生(せい)の源、本質のエネルギーの持つある特性を
誰にでもわかりやすく伝えるために、「阿弥陀様」といった存在を作って
方便的に伝えているものだ。

けれども、方便だからと言って、その内容が全くの嘘になるというわけではない。

仮に本当に阿弥陀様が存在していると固く信じている場合であっても
その信心の奥底には「阿弥陀様」といった方便を超えた
生命の本質があり、それに触れ、その中で生きることが可能となるからだ。

そういった意味で、生命の本質がわかるようになるのであれば
阿弥陀様だろうが他の宗教だろうが何だろうが、方便を利用するので
全く構わないのだということに気がついた。


禅やアドヴァイタなどでは、何かを信じることはしない。
むしろ、全てを疑い、切り捨てて行く。
全て切り捨てて何も無くなった時、そこで生命の本質がわかる。

そのため、自力系の人は、つい他力系の何かを信じている人たちについて
「全て捨てるべきなのに、あんなことを信じちゃって、バカバカしい」
と思いがちだ。

もちろん、何かを信じることは、大きな危険を伴う。
大抵の場合、その信じている観念の内容が正しいと思うようになってしまい
その観念に縛られてしまう傾向があるからだ。
そうすると、その観念というフィルターを通してしか物事を見られなくなるため
一種の「催眠状態」に陥り、歪んだ風にしか見られなくなってしまう。

けれども、妙好人など、その他様々な宗教の中で深い信心を通した結果、
その宗教の教義を超え、生命の本質がわかるようになる人々もいる。
よって、自力門だけが正しい方法というのではないことがわかる。


いつだったか、花粉症に関して「花粉症で鼻水が止まらず辛い。
でもうちの親父は『気合いが足りんからだ』と言って、病院にも行かせてくれない」
と、何でもかんでも精神力と根性で何とかしろという方針を
笑った話を聞いた。

もちろん、精神力、根性というのは素晴らしい。
生(せい)の源が精一杯の力を出して何かを成し遂げようとする時の
力強さと美しさは深い感動を呼び起こす。

けれども、世の中には精神力や根性だけでは解決出来ないものもあるし
また中には、その精神力や根性が思うように発揮出来ない人もいる。

そういった方がみんな怠け者というのではなく
本当に自分ではどうしようもなく、やりたくても出来ないケースというのが
多々あるのだった。

そのため、様々なタイプの人に合うよう、世の中には多種多様なアプローチや
メソッドが生み出され、提供されており、それは非常に興味深くもあり
ありがたいことでもあると感じる。


結局、自力のように思えるものであっても、元を辿れば生(せい)の源がそういった形で
現れてくれているものであって、「頂き物」なのだ。
(「頂き物」といっても、厳密にはそれを「頂く主体」と「物」とに
二つに分かれているわけではないのだが、ここは便宜上分かりやすく
こういう表現した)

自力も他力も同じところに行き着くのであって、何ら違ったものではない。
同じもの(生命の源)の働きによって可能となっているのであって、
いつでも全く同じものなのだったのだ。
(もちろん、現れている形は異なってはいるけれど)

そういう意味で、「生(せい)の源」「これ」「宇宙」「神様」というのは
本当に「善人」であっても「悪人」であっても、
探求者であってもそうでなくても、
何をしていてもいなくても、ただホケーッと過ごしていても
全てのものそのものであって
また一つ残らず全てを包み込んでくれている、非常にやさしいものだなあと
しみじみありがたく感じる。


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