12345678910111213141516171819202122232425262728293031
-------- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| スポンサー広告 |
2015-07-27 (Mon)
認識のシフトが起こって、自分というものがファントムだったと気づき
自分の中がポッカリ空っぽになり、大きな解放感を感じていた。

この「状態」について、色々と書くことは出来る。
この軽やかさ、素晴らしさ、満たされた感覚・・・

でも段々と、人間性というものについて関心を持つうちに
ここが「ゴールではない」という先人たち(特に禅の系統で)の言葉が
身に染みるようになって来た。


もちろん、ずっとこの素晴らしい状態に留まって、ここから色々と
何かを語ることも出来る。

そういった方たちのおかげで、そこから溢れ出る言葉に感化され
本質に気づくことの出来る人々も多くいる。
なので、そういった方々がいることも、非常にありがたいことである。


けれども、先人たちの
「この境地に留まってはいけない。
それらをも捨て、普通の一人の俗人、普通の人間になってこそ
人間として生を受けたがゆえの人生・生命を真に生きることになる」

ということが、やっとわかって来た。


もちろん、これはある意味では方便であって
どこにも「境地」といったものがあるわけではないし、
留まる「どこか」もないし、捨てられる「何か」があるわけでもない。
全ては「これ」以外の何物でもないのだから。

このパラドックスの感覚を言葉にするのは難しい。

けれども、あえて言葉で表現するとしたら
よく言われる「山に登ったままの状態」というのが
一番近い気がする。

そこで感じられる感覚、そういった素晴らしいものも捨てて
「山を下りる」ことにした。


師匠が「人間はそんなに強くはないのです」と仰っていた。

私はそれがずっと受け入れられないでいた。

弱い人間なんて嫌だ、悟って弱さなどとは無縁の人間になりたい、
人間性を超え、いつでも神・宇宙と一体の存在でいたい、
世俗から離れ、素晴らしい神秘の世界と状態に生きて行きたい、
とそんな風に思っていた。


けれども、縁あって、私は人間という姿形・機能をもって生まれた。

もちろん、非二元、空観の見方で言えば「私」はファントムであって、
本当は存在していないと言える。

けれども、現象世界ではこの身体と感情・思考の集まりでもって
「私」というものがあるように思え、その「私」といったものを通して
人生を体験し、他者・世界と関わって生きて行く。

このありがたいご縁、生命の機能を十分に活かし
普通の一人の凡人・人間として、生きて行くことにしたい。

「ここにある完全性」、生命のお祝いの中で
喜怒哀楽、その他様々な感情や人間性をひっくるめて
生きて行きたい。

私が長年恐れ、避けようとし、無くそうとして来ていた
悲しみや不安、迷い、怒り、心が傷つく感覚・・・
そういったものは、避ける必要も無くす必要もなかったのだ。

認識のシフトが起こってからは、それらはただの「現れ」に過ぎないと
わかった。
そして、それらに付随していた 「苦しみ」という幻想が剥がれ落ちた。

そして、検証の方法としての記事を書いている時は、
それらは「ただの現れに過ぎない」といった表現をして来た。

確かに、非二元、空観から見れば、そう表現することが出来る。

けれども、様々な感情を体験するというのは、人間という現れに備わった
貴重な機能であり、体験でもあるのだ。

浮かんで来たら良くないものでも、忌み嫌うべきものでもなく
素晴らしい機能であり、体験なのだ。


今、色々なことを振り返って来て思うことは、
長い間本当に辛かったけれど、
人間として生まれて来て、本当に良かった。

楽しいことだけでなく、様々な悲しみ、葛藤、苦しみ、心身の痛み、絶望・・・
そういったものも経験して来て、本当に良かった。

生きて来て、本当に良かったと思えるようになった。


人によっては、私がして来たような「探究」といった形をとらなくても
このことに気がつける人も多くいる。

ある人は自身の職業を通して、
ある人は子育てを通して、
ある人は趣味を通して、
ある人は自然との触れあいを通して、等等・・・


私は随分遠回りして来たなあ、と感じる。

それはそれで大変だったけれど、今となっては非常にありがたい。


ただの一人の人間として、普通の人として生きられることが、
とても幸せに感じる。


| 生きるということ・生命 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。