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2015-04-28 (Tue)
ある時、とある海外のサイトでおそらく英語圏の方だと思うけれど、
こんな風に書いているのを目にした。

「ああ、もし僕が日本語を話せたとしたら、きっと”自分”というものの幻想を
より簡単に見破れると思うのに、残念だ。
日本語では英語とは違って、大抵の場合、主語を省いて話すからだ」

という内容だった。

これには一理あるけれど、でも落とし穴があると感じた。


私も、以前同じことを考えたことがある。

例えば、日本語でなら、普通の会話の中でこんな風に話すことが出来る。

「昨日急に新しいテレビが欲しくなってね。それでお店に行ったら、いいのがあったんだ。
安いのに新型だよ。割引してくれるって言うから、買っちゃった。」

この表現の中には、確かに「私」という主語は一切出てこない。
「割引してくれるって言うから」といういところでも、「店員が」という主語もない。
それでも、何の問題もなく意思疎通が出来るし、むしろ上のような主語が無い方が
自然だ。

韓国語であれば、同じくこのように主語を省いた形で表現することは自然だが、
英語では主語を用いないでこのように表現をするのは、日記などの特殊な場合を除いて
難しい。

また、ロシア語やフィンランド語では主語を省いて話す場合も少なからずあるけれど
それでも動詞の活用の形でその主語が特定されてしまうので
やはりそこにも、ある意味主語が存在していると言えると思う。

出だしのところの海外の方の発言に戻ると、
このように日本語や韓国語では主語を省いて話すことが多いけれど、
それでは、日本人や韓国人はその言葉のために「自分」がいない、
「主体者」はいない、と感じているだろうか?

上の文に、主語をきちんと入れてみる。

私は昨日、急に新しいテレビが欲しくなってね。それで私がお店に行ったら、いいのがあったんだ。
そのテレビは安いのに新型だよ。お店の人が割引してくれるって言うから、私は(テレビを)買っちゃった。」

こうやって逐一「私が」などと主語を入れて話すと、
主体者というものがより浮き彫りになり、必然的に、「自分」というものをより意識しやすい。

このような理由から、私も以前は「主語が省ければ、主体者が影を潜めるから
よくアドヴァイタ系の人たちが言う、”行為者はいない”ということが
より分かるようになれるのではないか」と考えたこともあった。

けれども、ここに一つ落とし穴があった。


確かに、日本語では主語を省くことが出来る。
例えば喉が渇いて水を飲むとする。
「私は水を飲む」と表現するより、「水を飲む」と言った方が自然に感じる。

では、「水を飲む」と言った際、主語をつけていないからといって
水を飲む主体はいないと感じているだろうか。
いや、ほとんどの場合、「私は」と言った主語がなくても
私が飲む、ということが暗黙の了解になっているのではないだろうか。

「飲む」「食べる」「歩く」「考える」「感じる」「笑う」などなど
こういった動詞は、その単語自体に能動的な、つまりアクティブに動作をする
主体がいるということが、暗黙のうちに含まれている。

「自分」というファントム、そして「行為者」というファントムを見破るには
この「単語に暗黙のうちに、その行為を行う主体が含まれている」ことに
気がつくのが重要だと気がついた。

なぜなら、これは単語の響きから受ける印象(「行為をする人」がいる気がする、
というもの)が強く
そこから「行為者」ファントムが生まれてしまう元にもなっているからだ。


もちろん、だからと言って普通の話し方をしてはいけない、などという
意味ではなく、普段「当たり前」だと思っている言葉を注意深く見てみると
そこから色々なトリックやカラクリが見破れるきっかけとなるかも知れない。


言葉というのはとても面白い。


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