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2016-05-18 (Wed)
久しぶりに、こちらのブログの3月辺りの記事を読んでみたら
一つシックリ来ない感じを受ける表現があった。

それは、「生命の源」という表現だった。

以前は、「生命の源」という表現を中心にして、たまに「生(せい)の源」と
表現するときもある、という感じだったのだけれど、今回読み返してみると
この「生命の源」という表現に、一種の「限定されすぎた」感を受けた。


今であれば、「生(せい)の源」の方がよりシックリ来るところがある。

念のため、「生」と「生命」の定義を辞書で調べてみると、その理由がわかった。

以前にも書いたように、私は認識のシフト後、しばらくは強い空観の状態でいたものの
その後は、「色即是空、空即是色」で言うと、より「空即是色」の要素の方を
日常の中で感じる傾向があった。

そのため、私にとって、現象世界における人間や生物の「生命」というものが、
万物の根源に直結した愛おしいもので、
ある意味「特別な想い」がある位置づけとなっていた。

私がずっと「生命の源」と表現していたこと、それは今見ると、上に書いたように
私がもともと「空即是色」の要素が強い、というところがよく現れている表現だと
面白く感じた。

3月に「二重の見」という感覚になってから、実はそういったところの意識に
少しづつ変化が起こって行ったものだと思われる。

ここ数週間の間を振り返ってみると、しばらくは、日常ではこの「二重の感覚」というのを
特に感じなくなっていた時があった。ただ、意識して感じてみると、その二重の要素が
感じられる、というものだった。

そして今、ここ数日、その二重の感覚というのが再びより感じられるように
なって来た。

これは、言葉にすると、先天的な世界の要素と後天的な世界の要素に関する感覚
だと言えると感じている。
(ここでの「先天的な世界」とは、現象世界が現れる前の状態を指しており
「後天的な世界」とは現象世界のことを指している。

 この辺は、厳密に言うと、典型的な「非二元」という分野の範囲の話からは
 少し外れていると感じるところもあるのだけれど)

でも、二重ではあっても同時に一つであり、非二元であるため
言葉で「二重」と書くと、日常の言葉で使う意味での「二重」と受け取られてしまい、
誤った印象や誤解のもとともなってしまう危険があると感じるところもある。


いずれにしろ、気がついたのが、以前のように特に生物の生命に想いや意識が向いていた
ものから、今ではそれが現象世界全般へと変わった、ということだ。

現象世界全般なので、もちろん、その中には生物全般(人間の生命も)含まれている。


この状態をもとに表現するなら、やはり「生命の源」ではなく、「生(せい)の源」
だなあ、と感じる。

ただ、この現象世界において、生活の中で人間の死というものに関して
何か非二元的な観点から表現をする必要がある場合は、「生命の源」という表現の方を
使うだろうと感じる。

何故なら、それは迫り来る生と死への切迫・緊迫した思いや感情・体験というのは
「生命」という言葉の方に宿っていると感じるからだ。

上に書いた通り、「生(せい)」の中に「生命」は含まれているのだけれど
「生(せい)」だとサラリとして、軽く爽やかな感じがあり、
肉体を持った人間が体験する、死の恐れやショックというものを表すには
人間の心情側からすると、不十分なところがあると感じる(私の体験としては)。

そのため、そういった特殊な心情や体験に関する際には「生命の源」と表す傾向となる
だろうし、それ以外のときは、今では「生(せい)の源」と表現するのが
私にとっては一番シックリ来ると感じている。


上に書いた感じ方、というのは、あくまで私個人にとってそう感じる、という話のため
人によって感じ方は違うだろうし、またその表現も違って当たり前だと感じるため
これが正しい、という意味では全くなく、とりあえず過去の記事の中の
「生命の源」という表現に色々と思うところがあったため、自分なりに今感じていることを
書いてみた。

それと、これを書きながら気がついたのが、私の場合もともとそういう傾向があったけれど
ダイレクトパス関連の記事以外は、一般的に言われるところの
「非二元」という分野からは外れるところが多い、と感じる。

上の先天的な世界と後天的な世界の要素というのは、私が感じ体験しているところでは
一つであり非二元ではあるけれど、しかし紛れもなく異なった、ある種の「質」や「感覚」を
感じるところもあり、そのために「二重」という表現を使ったりしている。

これなどは、典型的な非二元の分野からすると、「それはただそう感じるだけで錯覚。
本当は全ては同じもの」だと言える(私も、空観に至る為のダイレクトパスの方法に関しては
そういった書き方をしている)。

また、「言葉はただのラベルに過ぎず、意味はない」というスタンスも
非二元の分野ではよく言われることで(空観的には、確かにその通りで)、
そういった観点からすると、上に書いて来た「生」も「生命」も
別にどっちだっていいじゃないか、と言えなくもない。

確かに、空観に至るためのアプローチとしては良いし、また「空」、非二元といった感覚では
もちろん、言葉はただのラベルであって、何ら実体を持つものではない。

ただ、別の感覚で言うと、言葉というのは、先天的な世界においても、後天的な世界においても
そこにある種の「エネルギー」(もしこれが強過ぎる表現であれば、「感覚」や「思念」など
別の表現で言い換えてもいいと思う)があるのが感じられる。

これに関しては、色々と感じるところがあるのだけれど、今日はこの辺にしておきたいと思う。




| 雑記 |
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