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2016-03-26 (Sat)
以前に「非二元・無心のいろいろ」という記事でご紹介した、
井筒氏の「無心」の4つの種類に加え、更に「私はいない/私はいる」
といった観点から、新たにここのところ自分なりに感じていることを
少し書いてみたいと思う。

これはあくまで私個人の体験や感覚を通して感じていることであって
これが正しいというわけではないので、軽く参考程度に読み流して頂ければと
思います。


いわゆる非二元という分野でよく言われる「私はいない」というのは、
ある特別な意識状態または一種の神秘体験によって、一時的に自分がない状態
というものを体験するのとは違っている。

ダイレクトパスの最初の頃の記事に詳しく書いたけれど、
この「私」「自分」だと思っていたものが、本当は思考や感情、肉体、感覚などの
集まりによって、あたかも「自分」というものが存在してしまっているように
錯覚していたものを見破ることであると言える。

また、これは自分に関してだけでなく、他者や世界に関しても同じで
この「現実世界」と思っていたものは、実は幻であったのだと気がつくものである。

これがわかると、全てが解放された感覚となるため、あたかもこれこそが
究極の状態だと感じてしまう傾向がある。

私も、一時期はこの「私はいない、世界は幻想」といった空観の意識が強い状態で
過ごしていたことがあった。

けれども、これは生命の源の特質の半分の面に過ぎない。

「私はいない」「世界は幻想」だけでなく、「私はいる(と紛れもなく感じる)」
「世界は現実世界(だと紛れもなく感じる)」という状態・要素も
同じく生命の源の現れそのものであり、生命の源の特質のもう半分の面であると言える。

私が感じているところで書くと、「私はいない」というのは「色即是空」の部分であり
(「ポッカリ空っぽ」の部分)
「私はいる」というのは「空即是色」の部分(「満ち満ちている」の部分)だ。

このどちらもが生命の源の働きであり、どちらが正解でも、どちらが優れているのでもなく
両方のバランスが大事なのだと感じる。


よく、私の武道の老師が言うのは、武術においてだけでなく、日常生活においても
何をするにおいても、とにかく陰陽のバランスが大切であり、どちらかに偏ると
バランスが崩れて弊害が起こりやすくなるということだ。

これは、「陰陽」といった概念を使わなくとも、「バランス」ということで考えても
この非二元、生命の働きに関しても非常に大切なことだと感じている。


以前の記事で、自力と他力は結局は同じことである旨の内容を書いたけれど
形として現れているもの(自力または他力)は違っているけれど
それを起こしているのはどちらも生命の源であり、結局は同じものである。

「私はいない」ということを通してわかる生命の源も、
「私はいる」ということを通してわかる生命の源も、
その特質や現れの姿は違っていても、結局は同じものなのだ。


「人離れて仏なし」という記事でも触れたけれど、生命の源には姿形がない。
そのため、その姿形がない生命の源が現れるには、どうしてもこの人間や
その他現象世界の様々な形が必要となる。

長い間、私は型や礼(礼儀)というものを、単に堅苦しく人を縛り付けるものだと
思っていた。

けれども、最近になってわかって来たことは、型や礼というのは、人の心
(生命の源の自然な状態)が現れるための「場」であるということだ。

伝統的な型や礼というのは、単に昔の人が意味もなくそうするべきだと決めたから
そうするべきものなのではなく(確かに、時代が下るにつれ、形骸化してしまい
元々あった本質が失われてしまっているところもあるようなのだけれど)
元はといえば、生命の源の働きが最も自然に現れやすい「場」または「状態」
というものを、昔の人が自分自身の体験を通して気がつき、それを本人または他の人が
体系化したものであると言えると感じている。

けれども、そういった型や礼をしていれば、ただそれでOKというわけではなく
もちろんそこにはそういった型や礼を行う本人の心や意識の働き・状態というものが
重要となって来るのだけれど、いずれにしろ、普段は気がつきにくい
生命の源の存在、そしてその働きを体験し、知るために
そういった型や礼というのはとても為になるものだと思う。

もちろん、広い意味で言えば、そういった型や礼がなくとも
今この瞬間のありとあらゆる状態が、生命の源がそのまま現れている状態である。
ただ、上のような型や礼というのも、生命の本質により気がつきやすくなるための
一つの貴重な場や方法であると感じる(更に、礼に関しては、他者という生命体に
敬意を表し、人間関係をスムーズにするという働きもある)。


上の「自分はいない/自分はいる」ということや、自力と他力ということ、
また、非二元の分野でよく話題にされる「自由意志はない/ある」ということなど、
一見相反するもののようだけれど、実は同じこと(生命の源の働き)である。

そのため、どちらかの面に偏ってしまうと、弊害が出やすいとも感じている。

例えば、自力と他力ということに関して「全ては自力だ」と自力のみに偏ってしまうと
全ての事柄(自分自身のことも他人のことも、世の中で起こる全てのことも)は
自分でコントロール出来るものであると勘違いしてしまう。
すると、ワンマンで支配的に振る舞うようになってしまったり、
また、自分に厳しい人の場合、全ての原因が自分にあると考え、自分を責めてしまいがちに
なったりする。

逆に、「全ては他力だ」と他力のみに偏ってしまうと、それが例えば
妙好人と呼ばれる人たちのような絶対安心の状態ではなく、単に都合の良い「他任せ」に
なってしまうと、何も自分でやらない、全部人のせい、という状態になってしまうことも
あり、そうすると、本来個人にそなわっている生命の力が発揮されない状態となってしまう。


これまで、プログラミングの解除(の重要さ)に関して何度か触れたことがあるけれど
このプログラミングの解除ということに関しても、同じことが言えると思う。

もちろん、自分の内面に向き合い、普段から自分の様々な癖や偏りに気がつき
プログラミングが解除されて行くのは、自己観察が適度に有効に働いている状態だと
言える。

けれども、自分に厳し過ぎたり、またはプログラミングを解除することばかりに
囚われてしまうと、それは自己観察ではなく、「自己監視」のようになってしまい
自分の中の「警察」が「これはダメだ、もっとこうあるべきだ」などなどと
取締りを始めることになってしまい、どんどん苦しくなってしまう。

そうすると、生命の源の特質の一つである「あるがまま」から離れてしまい
自分を檻の中に入れてしまうことになってしまう。

やはり、ここでも自己観察をしながら、「自己監視」にならないよう
バランスが必要だと思う。

「ああ、これはまた古いプログラミングによる癖だ」と気がつき
そこで様々な気づきや洞察へと展開していく場合もあるし、
その一方、時には「また古いプログラミングの癖が出たけど、それもOK」と
その瞬間の自分の状態をそのまま認めて受け入れてあげることも大切だと感じる。

私がこれまでの個人的な体験を通して感じているのは、(私自身にとっては)
禅の「妥協のない」アプローチと、浄土系の「柔らかく寛容な」アプローチの
両方の面がバランスよくあってこそ、最も自然で生命が自在に動け、また
生命が「発展」して行けるものだということである。

もちろん、人によってもそれは違うだろうし、これはあくまで私の場合、
ということである。


昨年、山を降りて以降は「本来の自分」の気質や在り方といったものを
徹底的に追究していたけれど、それが一段落して
ここのところ、「色即是空、空即是色」の両方を同時に感じる状態でいるうちに
「本来の自分であってもいいし、プログラミングによる ”本来の自分でない” 状態でもいい」
と感じるようになって来ていたことに気がついた。

というのも、「本来の自分」でない自分の状態というのも、実はそれもが
その瞬間にとっては、紛れもなく「自分」であり、
「本来の自分ではないものをも含めた自分」がその瞬間の唯一の「自分」であり
全てであるからだ。


結局は、元々のところに還って、「どんな自分でもいい」ということなのだなあと
面白く思った。

けれども、この「どんな自分でもいい」というのは、昨年のうちに経験した
本来の自分を知るということを含めた、全てのプロセスがあってこそ
それら全てをひっくるめた上での「どんな自分でもいい」であって、
途中の試行錯誤がなければ、ある意味中身のない、表面的な「どんな自分でもいい」に
陥っていただろうと感じる。

もちろん、この先また色々と洞察が起こるにつれ、今感じていることも
一つの過程に過ぎなかったと感じるかも知れない。

一つの過程でありながら、今この瞬間には完全である、この「自分」という状態。

どんな自分でもあっても、今この瞬間には唯一の状態である「自分」。

「自分がいない」「自分がいる」「本来の自分である」「(プログラミングによって
本来の自分ではない」の状態のどれもが、この瞬間の唯一の「自分」であり、全て・・・。


だから、一人一人、今のこの瞬間の自分を大切にすることが
自愛(利己愛ではなく、生命の源の特質と同じもの)であり、
最初から誰もが救われていたということに気がつきやすくなるのではないか、
なんて思った。


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