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2016-03-21 (Mon)
今年に入ってしばらくしてから、なかなかアウトプットが出来なくなり
特に、このブログを以前のように頻繁に書くことが出来なくなった。

その理由はいくつかあるのだけれど(忙しいということもその一つ)、
その中でも最近よく自問していたのが
このブログを書く目的は何か、ということだった。


このブログを始めてから、常にずっと心にあったのは
一個人の体験記を通して、これを読んで下さる方がご自身で内面に向き合い
生命の源に気づくこと、また、そうでなくとも、ご自身の内面を頼りに
内側の素晴らしさ、生きていることのありがたさ、豊かさに気がつくような体験が
自然と出来るようになればいいなあ、ということだった。

ただ、このブログを含め、外部の情報や何かを頼りにし過ぎてしまうと
その人本来の生命の力や輝きが発動されないままになってしまう。

このことが、心の中でしばらくの間非常に気にかかっていた。


このブログに綴っている体験記を通して、そこで体験した内容の「本質」の方を
読者の方が直に体験出来るためには、やはり言葉の表現では難しい。
けれども、何も書かなければ、やはり伝わらない。
「伝わらない」とは言っても、実は何かを伝えようと思って書いているわけではない為
伝える内容も無いといえば無い・・・。

そんなことを色々と思いながら感じるようになったのが、一番良い方法は
出来るだけ余計なことは書かず、自分が体験したことに関して
必要最低限のことを言葉で綴ることによって
その「余白」「空白」の部分によって、または言葉でのヒントによって
生命の源を直に体験して頂けるようになれば、ということだった。

・・・と、こんな風にズラズラと細かく説明している時点で
もう「出来るだけ余計なことは書かず」から外れているわけだし、また、
私がもともと色々と細かく書く傾向があるため、なかなか難しいかも知れない。

けれども、取りあえず、率直に、体験したままをそのまま
でも出来るだけ簡潔に書いてみようと思う。


*****
前置きが随分と長くなってしまったけれど、今日書きたかったテーマである
「ただ生命として在る」ということについて書いてみたい。

ここのところ、現代の都会というスピードの速い時間の流れの中で
同時に体感している「ゆっ・・・くり」「のん・・・びり」とした
生命の時間の流れ・・・

これを感じながら過ごしていると、これまでには気づかなかった自然の動きや
季節の感覚といったものがより鮮明に感じられるようになって来たことに
気がついた。

そんなある日、床に座ってゆったりと白湯を飲んだ。
まず口に含み、口の中に温かさが広がるのを感じる。
そして一口飲んでみると、まず胃の辺りがホワーっと温かくなり
更には腸の辺りまでその温かさが降りて行くのを感じる。

その流れの中で、白湯を飲んでいる「私」はいないし
飲まれている「白湯」もなく、あるのはただただ広がる静寂、
そしてその静寂の中に広がる温かさと言葉にならない「よろこび」・・・

そこには、ただ生命が在るのみ・・・

そんな様子を見て、家の人が「茶道はどう?」と一言。

「茶道?」と一瞬思った。

茶道と言えば、数年前に中国の陰陽思想について色々と勉強していた頃、
「間違って」日本の茶道と陰陽に関する本を借りて来たことがあった。

ところが、その本を読んだ時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。

その本には、茶道で使われる茶室の構造や道具について
陰陽の観点から説明が書かれていたのだけれど、その構造の
素晴らしいとしか言いようがないほどの完全性と美しさに
思わず涙が溢れてしまった。

ところが、自分では何故涙が出て来たのか、そしてどうして
それほどにまで感動したのか、その理由はわからないでいた。

今思えば、それは「時空を超えた美」に触れたからだったのだった。


そんなことを思い出しながら、「茶道といえば何だか堅苦しいイメージだけどなあ」
なんて思いながらも、何冊か茶道に関する本を読んでみた。

ああ、これほど素晴らしい世界があったなんて・・・!!

そこには、現実世界(現象世界)での様式や在り方の美がありながらも
同時にこの「無」「非二元」が生き生きと体験出来る、そんな世界だったのだ。

多くの形式や作法の中、何の自由もなく窮屈そうなその中に
実は真の自由、つまり本来の面目、生命の源、「無」、非二元・・・が
体験される場だったのだ。

そうは言っても、現在の茶道のほとんどは形骸化されており
単なる表面上の形式や作法に留まってしまっており、茶道の「本来の心」や
「本来の目的」が忘れられてしまっていると指摘されていることを知った。

また、茶道を通して、本来の面目がわかるようになるだけでなく
本来の面目、生命の源が自身を通して現れ、この現象世界において
新たなものが創造されて行くこと、
そしてそれを日常生活の中全てにおいて体現していくこと、
それが何よりも重要であるということだった。

茶道の本来の目的や心について色々と読めば読むほど、
私の師匠が仰っていた内容とも見事に重なり、思わず目頭が熱くなった。


もちろん、これは茶道に限ったことではなく、武道でも
その他日本の伝統芸能においても同じことが言えるようだ。

何と素晴らしいことだろう・・・!

茶道には他にも色々な意味や目的があるようで、
ここでは省くけれど、それらにも「素晴らしいなあ」と、いちいち
感動を覚える。


茶道ではないけれど、何かを飲むということに関連して言うと
「無」や非二元を体験出来る(かも知れない)一つの方法として
上に書いた「ゆっくりと感じながら飲む」というのも挙げてみたい。
例え「無」や非二元がわからないとしても、
少なくとも、自分自身の生命に触れられ、生命のよろこびを感じることは
出来るのではないかと感じている。

コツとしては、その際、頭で何かを分析したり考えたりせず、五感と体感覚を使って
白湯またはお茶の味や温かさを感じ、それが体に行き渡る感覚を
体験するようにする。

また、一緒にお菓子を食べる場合は、パクパクと食べないで
あえて小さいお菓子一つだけにしてみる。
(例えば、和菓子の小さなゼリーなど)
そして、その小さなお菓子をほんの一口だけ口に入れ
口の中での味わいや感覚だけでなく、ゆっくりと身体(特に胸の辺りからお腹の辺り)
の感覚も感じながら体験してみる。

すると、普段何気なくパクパク食べていた時には体験することの出来ない
時空を超えたところから湧き出る「生命のよろこび」と
不思議な空間を感じることが出来るかも知れない。

静寂のよろこび、生きているよろこび、言葉にならない満ち足りた感覚・・・

ただ生命として在る感覚・・・


(余談だけれど、私の場合、椅子やソファに座るよりも
床に座る方が、より落ち着くし、生命を直に感じやすいようだ。
人によって違うのかも知れない)




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