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2016-03-10 (Thu)
ここのところ、忙しいスケジュールの中、色々と考えさせられるところが
あった。

このままではいけない(何かがズレている)と感じていたところ
「ハラを時空を超えたところに置く(ある)」という感覚が起こり
それ以降、自分の意識や感覚の在り方が大きく変化し始めた。


この「ハラを時空を超えたところに置く(ある)」というのは、
元々は、長年武道をされているある方とやり取りさせて頂きながら
体幹と武道においてのお腹の状態のあり方について教わったものが
ベースになっている。

頂いたヒントをもとに、何日か試行錯誤しながら、その感覚が掴めるように
なった。

そしてある時に、たまたま本屋さんで安田登氏の本を読んでみたところ、
そのお腹の状態に関して同じことが書かれており、武道と能における
身体と意識の在り方・使い方の共通点に興味を抱くようになった。

(安田氏の本の中で、能の稽古中、「お腹に力を入れろ!」と師匠に言われ
 お腹に力を入れると、「違う!お腹の力を抜け!」と言われ、
 「何だ、さっきは力を入れろと言ったじゃないか」と思ってしまった、
 という初期の頃のエピソードが書かれていて、その気持ちがよくわかり、
 思わず一人で笑ってしまった)


「ハラを時空を超えたところに置く」(または、「ハラが時空を超えたところに在る」)
というのは、上に書いた身体の在り方に非二元の感覚が合わさったものだと言えると
感じている。

その状態で過ごすうち、普段感じる感覚というものが少しづつ変わって来た。

まず最初に気がついたのが、場所によって時間の流れが違っているということだった。

例えば、近所の公園と家の周辺では、明らかに時間の流れの速度が違う。
よく、「田舎や自然の多いところに行くと、時間がゆっくりと流れている感じがする」
と言ったりするけれど、それは単に「そう感じる」だけでなく
本当にゆっくりと流れているのだということに気がついた。

そして、その「ゆっくりした速度」というのは、本来の生命にとって自然な
速度であり、そのために「何故かホッとする。心身リラックス出来る」と感じるのだろう。

反対に、現代社会の時間の流れは早過ぎて、生命にとっては不自然な状態であるのだとも
感じるようになった。


先日、稽古の帰り道、真っ暗な並木道一面に濃い霧が立ちこめていた。
そこでの時間は非常にゆーーくりとしたもので、その幻想的な風景にプラスして
そのゆっくり、まったりとした時間の流れに、心身のエネルギーが満たされるのを
しばらくその場にたたずみながら感じていた。


次に気がついたことは、認識のシフト後間もなくして「山を降りて」からというのも
「色即是空、空即是色」で言えば、私はどちらかと言うと「空即是色」の要素が
強かった。

それが、ここのところ、「色即是空、空即是色」の両方の要素が同時に感じられるように
在り方、状態が変わって来た。


普通に過ごしていながら、日常にどっぷりでいながらも
「色即是空、空即是色」の両方が感じられ、どちらにも偏らず、
また、別の言い方をすると、「色即是空、空即是色」の両方が感じられるのに
でもそれすらどうでもいいと感じる感覚・・・。

どちらでもいい、何でもいい、でもどちらをも含んでいる、という感覚・・・。


そんな中で感じたのが、禅で言う悟後の修行とは、この状態を日常の中、
生き様の中でいつでも当たり前の状態として生きて行くことだったのだと
改めて気がついた。

ただの人間・凡人として過ごしながら、現象世界の波にもまれるけれど
でも、それは以前の「ただのもまれ方」とは性質が大きく違っていて
「色即是空、空即是色」の両方がその中に自然と含まれている状態、
そういった在り方、生き方のことを指していたのだった。

でも、外から見れば、一見「普通」の人とさほど(というかほとんど)変わりないため
周囲の人から見れば「無心がわかったと言っても、悩んだり悲しんだり、普通の人と
全く変わらないじゃないか」と見える。

私も師匠のことを見て、昔そんな風に思っていたことがあった。

そして山を降りて以降は、師匠のそういった人間的な部分も
「覚者とは言っても、普通の人間だから」と、その部分が愛おしく、またそういった
性質が理解出来るようになった。

けれども、今になって気がついたのは、外から見ればそういった「人間的な部分」として
見えていても(もちろん、「人間的な部分」であることには間違いなく)
師匠の中身は、実はただの「人間的な部分」だけでなく、「色即是空、空即是色」の
両方を含んだ上での「人間的な部分」だったのだったと気がついた。

それに気がついたら、師匠の言動において一部謎だと感じていた部分が
スッキリ解けた。「ああ、だからだったのか」と・・・。


最近、武道と非二元との関係性を探る中で、「心」というものに改めて興味が
出来てた。

以前は、「心」の内容の方に焦点を当てていたけれど、今度はそもそも「心」とは
人間にとってどういった役割を果たしているか、どんな意味があるのか
といったことだった。

例えば、武道において(武道だけでなく、スポーツや試験など、色々な場面で)、
窮地に陥った時というのは、その「心」に反応が起こると
たちまち本来の動きや力が発揮出来なくなってしまう。

人間の素晴らしい特質である「心」なのに、それが時には生命を危険にさらすほどの
「邪魔」となってしまうのは何故なのだろうか、といったそんな疑問だった。
(これに関する考察や洞察については、また別の記事で書いてみたいと思う)

そこで、最近は武道と能関連の両方の本を読んだりしているのだけれど
その中で、「無心のダイナミズム」(西平直著)という本を読んで
そこで自分が体験してきたこと、または今まさに感じていることが
上手く言葉に表されて体系化されており、自分の感覚を頭でも整理することが出来て
非常にありがたかった。


例えば、禅では
「山は山である」→「山は山ではない」→「山は山である」
という表現がある。

これは、最初の段階(まだ悟りに至っていない状態)では、山を普通に山だと認識している。

それが、悟りの体験をすると、現象世界は幻想であるということがわかり
また、生(せい)の本質がわかることによって、区別のない世界(非二元)がわかり
これまで見えていた山が普通の山のようには見えなくなってしまう。
(いわゆる、空観の世界・感覚)

そしてその後、再び「山は山である」のだけれど、一見すると、最初の「山は山である」と
同じもののように捉えられる。

けれども、最後の「山は山である」は最初のものとは全く違っていて、そこには
区別のない世界を含んだまま、再び日常的な感覚である山は山(であり、川とは違う性質)
ということが体験されるものであるのだった。

ここでは、日常的な感覚が戻っているため、普通に「私」もいるし、「他者」もいるし
「世界」もあるけれど、それでもそれは、非二元を含んだ上での感覚であり
二元性の世界の中での区別とは違ったものとなっている。

最近では、この「二重の感覚」というもので過ごすことが増えて来た。

そしてその中で、改めて気がついたことがあった。


それは、以前から少し気になっていたことではあったのだけれど
同じ「非二元」「無心」といった性質のものでも、その内容は異なったものがある
ということだった。

例えば、以前に私がまだ学生だった頃、この「私」に代わって
生(せい)の源が勝手に難しい試験の問題を解いてくれた時の「無心」の状態と
街の中の人や周囲のもの全てが「私」だと感じられた体験の「無心」の状態のものと
認識のシフトが起こった直後しばらくの間続いていた「無心・非二元
(私も他者もいない、この世は幻想)」が極めて強い状態、
そしてその後、日常の中においても心で、そして感覚として感じられていた
「非二元(全ては生の源の現れ)」という状態、そして最近感じている
「色即是空、空即是色」が同時に立体的に等しく感じられる状態、などなど
それらは全て同じ「非二元」「無心」ではあるけれど、それでも性質としては
少し違った部分があるところがあるのを感じていた。

けれども、それらの「異なった部分」については上手く言葉にすることが出来ず
いつも少し気になっていたところがあった。
上に挙げた本の中ではそれが上手く体系化されており、それを読んで
やっと自分の体験を頭でも整理することが出来た。


その本によると、
「無心」の4つの局面として、ハープ演奏者の体験を例としてこう挙げられている。

1)楽器のみ(楽器自らが奏でる)
2)我のみ(音楽と一体となった自分)
3)我もなく楽器もない(我も楽器も共にない)
4)我もあり、楽器もある(わたしが、ハープを、弾く)

これらの内容はと言うと(本の内容を少しアレンジすると)

1)楽器のみ(楽器自らが奏でる)
 → 楽器のみが残っており、「私」が演奏するのではなく、楽器自身が奏でるという感覚。
 → 環境は残ったまま、「私」だけが消えてしまった状態。

2)我のみ(音楽と一体となった自分)
 → 「私」しかおらず、楽器はないという感覚。
 → 環境が消えてしまい、「私」だけが存在している状態。

3)我もなく楽器もない(我も楽器も共にない)
 → 「私」も「楽器」も両方ともが消えてしまっている感覚。
 → 「私」でも「楽器」でもなく、両方どちらでもない状態。

4)我もあり、楽器もある(わたしが、ハープを、弾く)
 → 「私」も「楽器」も感じられる感覚。
 → しかし、主客対立の世界ではなく、非二元の状態。


この4の「わたしが、ハープを、弾く」というのは、一見すると
ただの普通の状態であるように見える。

けれども、これは主客対立、二元性の状態ではなく、非二元の状態であり
上の本によれば、これを井筒俊彦氏は「フィールド全体の自己顕現」と表している。

井筒氏によると、この「フィールド」とは

1)主客をいわば上から包み込むような形で現世する全体的意識フィールド
 (主も客も共に包み込んだ場、フィールド)

2)主も客もともに捲きこんだ渾然たる全体フィールド
 (存在のフィールド)

3)全宇宙に遍満し全てを貫いて流動する一種の生命エネルギーの創造力のようなもの
 (「生命エネルギー」の流体的な動き)

であるとし、この流動する生命エネルギーが4つの異なった「姿」で現れるとしている。

それを上のハープ演奏者の4つの状態の例えに当てはめると、以下のようになる。
(上の本では、井筒氏の講演で紹介された順序をそのまま載せてあるため
 ここでも本のp.102〜の内容ををそのまま引用することにする)

まず、3)我もなく楽器もない(我も楽器も共にない)
 → 「全体フィールドに満ちたエネルギーが、どちらに傾くこともない。
   したがって表面的には何らの姿も現れない。
   ”微動だにするものなく、永遠の静謐が支配”している。

   (中略)
   フィールド全体性がそのまま完全な安定性を得て、しかもどこにも特に目立つ
   中心点がない場合。

   (後略)」

次に、2)我のみ(音楽と一体となった自分)
 → 「その静謐なフィールドに「我」の意識が生じてくる時、全体フィールドに満ちた
   エネルギーが、一挙に「我」に向かって流れ出す。

   (中略)
   全宇宙、ことごとく、「我」。
   (楽器から切り離された「我」ではなく、楽器も世界も宇宙もすべて包み込んだ
    全体フィールドのエネルギーがそのまま「我」となって顕れ出ている)


1)楽器のみ(楽器自らが奏でる)
 → 「今度は、全体フィールドに満ちたエネルギーが、一挙に”楽器”に集中して
   流れ出す。

   (中略)
   全体フィールドに満ちたエネルギーが、全体を挙げて楽器となることを
   意味する。」
  (我も世界も宇宙もすべて包み込んだ全体フィールドのエネルギーが
   そのまま「楽器」となって顕れ出ている)


最後に、4)我もあり、楽器もある(わたしが、ハープを、弾く)
 → 「全フィールドに満ちるエネルギーが、”我”に傾くことも”楽器に”傾くこともなく、
   すべてが同じ重みをもって意識の表面に現れる。

   この世界には”我”が居る、”我”に対する”此れ”もある。
   だが内部構造的には、それが普通の主・客対立ではなくて(・・・)
   主・客対立を包み込んだ「無心」的主体の自己顕現なのである。」


そして、これら4つの局面というものには
 優劣はない。どの形を取って現れても、同じ一つの「無心」が現れている。


また、上の説明では4つの局面となっているけれど、私個人の感覚で言うと
それ以外にも、上の「フィールド」に関する説明のところであった
「全宇宙に遍満し全てを貫いて流動する一種の生命エネルギーの創造力のようなもの
 (「生命エネルギー」の流体的な動き)」
というものを、常に感じている状態(局面)というものもあると感じている
(「山を降りて」以降の昨年の私はこの状態が主だった)。

ここのところ、上のカテゴリーで言うと4の状態であることによって、
様々なことが立体的、多層的に感じられ、新たな洞察が生じている。


上に書いたように、「非二元」「無心」とは言っても、
同じものでありながら、そのエネルギーが現れる姿や
個人にとって、そして時期や場合によって体験・体感される局面・要素は異なっており、
そのため、人(または場合)によっては「私はいない」という体験であったり
「全てが私」であったり、「どちらでもない」であったりと、様々であるのだった。

それらに優劣はなく、ただ生(せい)の源のエネルギーの現れ方の
違った局面・要素を体験し、それを表現したに過ぎないものなのだった。


| 雑記 |
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