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2016-01-15 (Fri)
今年に入ってから、あまりパソコンを使っていないので
メールのチェックもほとんどしておらず、気がついたら
非二元に関していくつか質問を頂いていた。

その中で、ある種の共通点があると感じたため、
頂いた質問をふまえていくつか書いてみたいと思う。


まず、ダイレクトパスの検証を続けていて、頭では分かる
(ただ色が浮かんでいるだけ、ただ何らかの感覚が浮かんでいるだけ)
けれど、それでも腑に落ちていないし、相変わらず非二元とは何か、
生命の源が何かがわからない、というもの。

また、これは以前にある方が、ダイレクトパスというのは
単なる知的な「思い込み」であって、思考による活動内のものではないのか、
それとはどう違うのか、と仰ったことがあったのだけれど
(確かに、とても良い着眼点だと思う)、そのこととも関連していると
感じる。

確かに、検証中に行っていることは、最初は思考を使っている。
「”リンゴ” と普段呼んでいるものは、本当は何だろう?ええと、赤色のものが
あって・・・」などと言うように。

けれども、その後、「リンゴ」という言葉やラベルを通して観察するのではなく
ただありのままを観察し始めると、そこではもう思考活動ではなく
感覚の世界、生(なま)の体験の世界へと移って行く。

それでも、最初は「うん、確かに言葉やラベルを外せば、
ただ赤色のもの、または赤という色があるのはわかる。
でも、だから何だ?それ以上は相変わらずわからない」と感じてしまうことが
少なく無い(幼少時に言葉を覚えてから、ずっと言葉や名前を通して
世界を体験することを何十年も続けて来ていたので、それはむしろ
当然のことで、何らおかしいことではないので大丈夫)。

けれども、そういった検証を何度も何度も集中的に繰り返すうちに
ある時、「ああ!!!」とわかる時が来るかも知れない。

それは、思考の世界から、感覚の世界へ、そして更には「直感」の世界へと
感覚が切り替わった瞬間だと言える。

これは、禅の公案が解ける時の瞬間も同じであると感じている。

禅の公案では、最初に言葉による公案があり、それを何度も何度も
頭で考える。
こうではないか、いや、ああではないか、いや、そんな答えではない、
何だろう、何でだろう・・・と、ありとあらゆる角度から考える。

もちろん、思考内であれこれやっているうちは、解けない。

けれども、ある時、その思考を超えたところに感覚がシフトし
突然「ああ、わかった!」となる。

ダイレクトパスの検証も、禅の公案も、スタートは思考活動だけれど
「わかった!」という瞬間が訪れる時は、もはや思考を超えた
直感の世界、生命の源の世界へと感覚と認識が切り替わっている。


では、いつそういった瞬間が訪れるのだろうか?

これは、それぞれの人まちまちであるため、一概に言うのは難しい。
一般的に言うと、集中して取り組めば取り組むほど、効果は早く出やすいようだ。
そのため、ダイレクトパス系のセッションを行っている人やサイトでは
一気に追い込むように検証をする体制を取っていることが少なくない。
(少なくとも、私の知っている範囲では)

それでも、これも人によって向き不向きがあり、集中的に追い込まれて
認識のシフトが起こるタイプの人もいれば、集中的に取り組むことが苦手な人、
または追い込まれるとかえって嫌になってしまうタイプの人もいるようで
そうなると、かえって逆効果になってしまうようだ。

非二元関連の目覚めた人たちの中でも、例えばジョーン・トリフソンのように
じわじわと、気がついたら変わっていたというタイプの人もいるため
必ずしも瞬間的、衝撃的なシフト体験が必要というわけではないようだ。

ふと感じたのが、ある意味、これは語学の習得のプロセスにも似ているところが
あると思う。

一番効果がある方法は、短期間のうちに一気に集中的に外国語習得に取り組むことで
その外国語の基礎となる部分(枠組みや土台)がしっかり浸透し、
ある程度「身」になると、例えその後はしばらくその外国語に触れていない期間が
あったとしても、時間が経ってから再度触れたり、学習を再開した時には思い出しやすいし
向上が早い。

また、こういった学習方法での面白さというのは、集中的に取り組んでいる中で
ある時に、爆発的な変化が起こることがあるということだ。
いきなりスラスラ話せるようになったり、また耳の中がはじけたような感覚になり、
それまで理解出来なかったことや聴き取れなかった音が急にクリアになって
わかるようになることがある。

その瞬間というのはとても面白いもので、まず、話すということに関しては
それまでは言いたいことがあるのに言えない、表現出来そうなのに出来ない、という
非常にもどかしい感覚の中にいたのに、それが突然、まるでダムが決壊して
水が流れ出し、言いたいことが話せるようになるような感覚である。

また、聴解に関しては、それまではまるで耳の中に水が入っていたのが
突然取れたような、ベールがかかっていたのが剥がれたような、
そんなクリアな世界へと変化するのが感じられる。

一方、そういった集中的な取組みがなく、何となくダラダラと外国語を
学習していた場合というのは、自分でも進歩しているのかしていないのか
あまりよく実感出来ず、また、上のような瞬間的な変化というのも
訪れにくい。

その代わり、何年も続けていると、ふと気がついたら、
そういえば、昔に比べて随分と理解出来、使えるようになっていた、と
自分でも驚くようなことになったりする。

認識のシフトに関しても、プロセスに関してはこれと似ていて
意識的にしろ、無意識的にしろ、続けていれば、ある時に機が熟して
パッと瞬間的なシフトが起こったり、または気がついたら
何故かわかるようになっていた、という風になっているという、
大まかに分けて、そんな2種類の変化の過程があるのだと感じている。

そのため、もし本当に検証を続けて非二元がわかるようになりたい、
生命の源がわかりたい、というのであれば、是非諦めないで
続けて行ったら、いつかわかる時が訪れるのではないかと思う。

今はわからなくとも、必ずどこかに蓄積されていて、ある時に
機が熟してパッと花開くのだと感じている。

また、面白いもので、自分では意外なところ、全く予想もしていない時や
きっかけでそういった認識のシフトが起こることも珍しくないため
結局は、何であれ自分が心からやりたいこと、何故か心惹かれることに
取り組んでいれば、間違いないと言えると思う。



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