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2015-12-11 (Fri)
ここのところ、主に井筒敏彦氏の本をもとに
色々な宗教や宗派について見ている。

私は宗教的な知識は持ち合わせていないし、また哲学者でも研究者でも
ないため、私の読み方というのは、あくまで自身の体験と感覚をベースに
それらに照らし合わせながら読み進める、というものだ。

そんな中で、今の段階で気がついたことについて書いてみたい。


結論から言うと、それは様々な宗教の大元、万物の根源は同じであり、
そこには何もなく、それらは宗教や人によって異なった呼び方を
されている(空、渾沌、道、玄虚、非有など)。
(私がよく使う、「生命の源」または「生(せい)の源」もここに含まれる)

しかし、その万物の根源から現象世界が生まれて行く過程、
そしてその後の展開や現象世界の成り立ちといったものについては
それぞれの宗教や宗派で、その内容はかなり異なっている。

「それぞれ随分違うことを言っているんだなあ」と不思議に思いながら
読み進めて行くと、一つ気がついたことがあった。

それは、私自身の体験について、ある部分はある宗教または宗派の説く内容と
同じものであり、また別の体験については、別の宗教・宗派の説く内容と同じ
という風に、それぞれ異なっている、または「複数の宗教・宗派にまたがっている」
のだった。

宗教や宗派というのは、簡略化して言ってしまうと、
まず誰かが宗教的・霊的体験をし
(その過程は様々で、人によっては啓示を受けたり、または修行の末、
独自の体験が起こったり)
その後、その本人または周囲の人がその体験内容を書き記し、
一つの「思想」または「教義」として体系化して出来上がって行ったものだと
言える。

そのため、それぞれの宗教や宗派というのは、誰かの生きた体験から生まれたもの
であって(中には、研究や観念的な議論の末、新たな宗派が出来る場合もある
ようだが、そういった、実体験を離れた観念論によるものの場合を除いて)、
どれもが生(せい)と直結しているものなのだ。

少なくとも、それを体験した本人にとっては。

人間である以上、その人に備わった気質や感受性の種類というのは異なっていて
そのため、宗教的体験であっても、人によって体験する(または体験出来る)
内容というのは、人によって異なっている。

こういった背景をもとに、もう一度ラーマクリシュナの言葉を読んでみると
更にその意味がしみじみと感じられる。

以前の記事で引用したラーマクリシュナの言葉をもう一度引用すると

 世の中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて
 現れたもので、各々が意義を持つ。
 究極の一に至るために人は自分に合った道を行けばよいという。
 彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って下さる」
 という喩えを用いている。
 子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、
 神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作るということである。



万物の根源と様々な宗教・宗派の関係を見てみると、
万物の根源は樹の幹であり、そこから枝分かれして、様々な宗教・宗派が生まれ、
存在していると喩えることが出来ると感じる。

そのため、どの宗教や宗派が正しい、と言った論争はあまり意味がなく
それぞれが生きた体験から生まれたものであって、正しいと言えるのだと感じる。

もちろん、時代が下って、その宗教や宗派をまとめるために
人為的に教義に手を加えたり、観念でもって内容を付け加えたりして行ったものは
もう「生きた」ものではなくなってしまっている。

けれども、もともとのところは、生き生きとした一人の実体験から生まれたもの
だったのだ。

このことが、身に照らし合わせながら読み進めるうちに、ハッキリと感じられ、
どの宗教も宗派も、もともとは誰か一人の人間の生きた体験だったのだと
それが何だかとても嬉しくて、歓びで胸一杯になった。


井筒氏の本(何冊か借りて来たのだけれど、今読んでいるもの)には
主にイスラム教、スーフィー(イスラム神秘主義)、大乗仏教、禅などで、
そこにたまにキリスト教やユダヤ教、ヒンズー教、その他インドの哲学などの
説明も出て来る。

それを読みながら、とても面白く感じたのが、現象世界が現れる過程について
例えば禅のように「人間」を通して世界が展開されていくとするものと
イスラム教、ユダヤ教、キリスト教のように、「神」を通して世界が展開されて
いくものと、それぞれ異なっているということだ。

また、「コトバ」についても、それぞれ見方が違っていて
禅では人間の意識・無意識の機能を通して、現象世界という ”妄想” の世界が創られ、
それが展開しているとし、
それに対し、イスラム教、ユダヤ教などは「コトバ」(=神)が
現象世界を創ったとしている。

また、真言密教では、禅においては「言語化出来ない領域、体験」とするものを
あえてコトバにすることが可能であるとしており、そのコトバは
「法身説法」、つまり大日如来そのものが語るコトバであるとしている。

井筒氏の『意味分節論と空海』から引用すると

 (前略)
 しかし、それと同時に空海は、法身の語るコトバと人間の語るコトバとの
 内面的連関性を指摘することを忘れない。
 「コトバの根本は法身を源泉とする。この絶対的原点から流出し、
 展じ展じて遂に世流布のコトバ(世間一般に流通している普通の人間のコトバ)
 となるのだ」
 (後略)


これを読んだ時、「おお、何とも美しい!」と感動を覚えた。


私自身がやって来ていた方法(万物の根源がわかるための方法として)は、
主に禅とダイレクトパスのアプローチであり、それらは両方とも
人間の意識や生理的・身体的機能とその作用によって、人は本当は実体のない現象世界を
あたかも実体のあるものとして捉え、「幻想」を見させられている、
というものがベースになっている。

そのため、そこには神や大日如来などの、人間ではない存在というのは出て来ないし、
「コトバ」といったものも出て来ない。

けれども、同じ万物の根源といった樹の幹から枝分かれした
他の宗教・宗派の体験や教えを知ることは、自身の体験をさらに深め、
また新たな発見をして行くのに、大きな助けとなることと感じており、
「まだまだ色々な世界がある」と、それがとてもワクワクする。


 
| 雑記 |
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