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2015-12-09 (Wed)
禅の公案に「世尊陞座」というものがある。

この公案は、簡単にまとめると、
お釈迦様がある日、説法の座についたけれど、何も語らない。
ところが、弟子の文殊は槌をカーンと打ち、大衆に向かって
「よく注意して明らかに見れば、ご覧の通り、これこそがまさに
お釈迦様の教えである」
と告げ、お釈迦様は座から降りて帰られた、
というものである。


これは、「仏法全現成」を表すものであり、つまり
お釈迦様の一挙一動(ただ黙って座り、その後去って行く)、
文殊がカーンと槌を打つことなど、どの在り方や行動をとっても
そこに仏法が現れていることを指している。

そしてこれは、何もお釈迦様や文殊だけに限ったことではなく、
誰にでも当てはまることで、自分の一つ一つの行動や在り方、
何かしても何もしなくても、それら全てが仏法を体現しているのだ。

とは言っても、普通であれば、なかなかそのことに気がつくのは
難しいかも知れない。


私は一時期、井上義衍禅師の語録を読むのが好きで、よく読んでいた。
というのも井上禅師の表現は、「感覚」に響いて来るものであり、
言葉で表せないものを、感覚的なところに訴える擬音語や擬態語によって
その仏法、生(せい)の源が伝わって来るものだからである。

禅師の表現には、例えば「ここでポンっと手を打ったら、コロッと、はい
それで終わり」「カーンと音がしたら、パッともうそれだけ」
「ポンッと音が鳴ったら、ゴロっとそのまま真相が丸出し」など
その他「びゅーっと」「バーッと」「ニューッと」など、
様々な擬音語や擬態語が飛び出して来て、何だか嬉しくなってしまう。

探求中、初めて井上禅師の本を読んだ時、体と心が「ハッ」とした。
上のような擬音語や擬態語での表現に触れているうちに、
確かに何かに「ハッ」と気がついたのだけれど、でも頭では
それが何なのかわからず、非常にもどかしい思いでいたのを覚えている。
(以前に書いた、「茶碗を洗え」の公案でも同じようなことが起きていた)

今見ると、禅師の表現はこれほど簡潔にわかりやすく表しているものはなく
明瞭なもので、思わず「いい表現だな〜」と感動してしまう。

また、例え最初は分からないでいても、擬音語や擬態語による表現というのは
どこかしら身に響いてそれが種となり、いつか機会が熟した時に
パッと花開いて「ああ!」とわかるような作用をするのではないか、
なんて感じた。

禅師の『信心銘』という本の中で、こんな記述がある。

 人の本当の在り方というものは、(手を叩いて)ポン。
 ここから始まり終わっているんです。
 私の手の音じゃないんです。
 あなたがたのところに、今、その動きがある。
 だれも、どうしたんでもこうしたんでもないんです。
 そういうふうに、いちいち、きちんと因果の法則としての面から
 寸分の間違いのないように、キチッと現れながら、
 すべてからコロッと落ちてしまっているんです。

 
何と簡潔で見事に表された表現だろうか。


そういえば以前に私の師匠が、人が「おはよう〜」と言って
相手が「おはよう〜!」と返す、このやりとりそのものが
もう仏法丸出しで、そのままに現れている、と仰ったことがあり
私はそれを聞いた時、「ハッ」として感動し、思わず涙が溢れてしまった
ことがあった。

どんなに「ありふれた普通の」動きややり取りであっても
その一つ一つ、そして一連の流れ全てにおいて、そこにはきちんと
生(せい)の源とその働きが如実に現れている。

また、これはいつか言語関連の記事で書きたいと思っていることなのだけれど
私は、人々の「え??」というような驚きの反応や声がとても好きで
(そういう反応を実際に目にしたり、テレビで見ると)
「おお、生(せい)の働きの素晴らしさ!」と密かに感動してしまう。

その理由は、上の流れでも書いている、そこに生(せい)の源と働きが
「コロッと」「パッと」(井上禅師の表現をお借りすると)現れているのが
とても生き生きと感じられるということでもあるし、また
別の側面では生命と言語と関わっているものがあり、それについては
別の記事で書くことにしたい。


全てがただそのまま「コロッと」「パッと」現れているのであれば、
それでは、自分が見ているものは何なのだろうか?
自分が見ているのは、本当に客観的なものなのだろうか?

探求中の頃、ある時期から私は、自分が肉体や思考、感情ではなく
本当の自分とは ”意識” であるということがわかった。
そうなると、もうそれは非常に大きな解放感で、しばらくの間は
まるで体が無くなって宙に浮かんでいるような感覚になり
「スイーン」と、自分が空間を自由自在に移動しているような感じで
身も心も浮かれながら日常を過ごしていた(今考えると恥ずかしい)。

ところが、それでも依然として「”意識” である自分がここにいて
向こうにある世界を眺めている」といった、かすかな分離感、つまり
主体と客体とに二分化されたままであるのを感じていた。

徐々にその違和感は無視出来ないものになり、「まだここで終わりではない」
と気づき、その後探求を続けて行った。

その時にヨーラン・バックルンドの "Refuting the External World" という本に
出会った(題名を訳すと、「外界というものを論破する」とでもなるだろか。
私は翻訳のセンスが全くない人間なので、芸のないわかりにくい日本語訳で
大変申し訳ない)。

ヨーランは自身の体験の中で二元性が崩れ、認識のシフトが起こった方だが
ベースは哲学者のため、本の内容も哲学的で論理的な内容となっている。

いずれにしろ、そこで本を読みながら自身で実験を通してわかって行ったことが
究極的には、純粋な「客観世界」というものは「ない」ということだった。

そのための詳しいやり方・アプローチについては、
いずれまた機会があればご紹介したいと思っているのだけれど
とりあえず今は内容の方に集中して書き進めてみたい。


例えば、池に細めの棒が突き刺さっているとする。
すると、横から見ると、棒は水面より上は真っ直ぐで
水面から下は少し曲がって見える。

これは、光の屈折によって目にはそう見えるだけであって、
実際の棒が水の下から急に曲がってしまったわけではない
(「何だ、当たり前のことを」、と思われるかも知れないけれど)。

また、真ん丸の平たいお皿がテーブルの上に置いてあるとする。
私はそのお皿を真上から見ているので、それは真ん丸のお皿に見える。

ところが、数メートル離れたところにいる友人からして見れば
テーブルの上のお皿は楕円形に見える。

つまり、ここでは私に見えているお皿の形と
友人に見えているお皿の形は違ったものになっている。

それでは、お皿は「この人にはこういった形で見せよう、
またあの人には別の形で見せよう」と形を変えているかというと、
もちろんそんなことはない。

ここで重要なことは、「それぞれの人によって、その瞬間瞬間、
見えているものは違う」ということだ。

そして更に言うと、本当は「見えているものが違う」というだけでなく
その、それぞれに見えているもの、その「物体」というのは
本当は存在していない。
従って、その物体の「本当の姿」「客観的な姿」というものも
存在していないのだ。


「でも、お皿は丸いというのは誰でも分かるじゃないか。
立つ位置をズラせば ”元来の” お皿のまま誰でも認識出来る。
本当のお皿というのはその丸いものであり、その姿こそが客観的なもの
と言えるじゃないか」と思うかも知れない。

けれども、人間(に限らず、あらゆる生物)にとって見たり、体験出来たりする
世界というのは、実は全てが主観的なものだと言える。

というのも、実は全てが「バーチャルリアリティ」のような構造をしており、
(これを見破るためのヒントは、過去のこちらの記事を参照下さい。
後日、更に詳しい方法について書いてみたいと思っています)
五感を通して体験出来るものは、全て自分自身の身体の生理的作用や身体構造、
また、その機能の種類や能力によって、大きく左右されるものだからだ。

例えば、色盲の方にとっては、認識出来ない色というものがある。
それを「いやいや、これは○色だ、こっちが正しい!」というのが
大多数の人の見解で、その色盲の方の見ている世界というのは
「間違った」世界とされてしまう。

でもこれは、ある意味正しく、またある意味正しくない。

確かに、大多数の人のプログラミング(バーチャルリアリティの設定)では
ある色が一定の色のように見える風になっている。
けれども、それもただそう「設定」されており、生理的機能がそう働いているから
そう見える、というただそれだけのことであって、
「元来の色」といった、純粋に客観的な物体や色といったものは、
実は存在していないのだ。

というのも、人間である限り、誰もが自身の身体を通して自身の世界を体験している
ものであり、どこまで行っても、自身の身体(プログラミング)によって
体験させられてしまうのであり、その世界を超えることは出来ないからだ。


それは「客観的」な研究をしている科学者に関しても同じであって
科学者が顕微鏡で覗いている世界というのは、いかに客観的なもののように見えても
その「見る」という行為(体験)自体が、もう既にその科学者の身体(プログラミング、
そしてバーチャルリアリティ)による世界の中のものなのだ。

そういうわけで、どちらの(または誰の)世界が正しい、というものはなく
それぞれプログラミングや設定によってそう「見えている」「見させられている」
と言える。
(だからと言って、現象世界において、視力や色盲の治療をするべきではない、
などという意味ではないし、また、科学者の研究は意味がない、などという
意味でもないので、念のため)

現象世界において人間として生きる限りは、いつまでも自分の世界しか見えない。
でも、その自分の世界というのは、時期によって、または内面の洞察の変化により
見える、または体験する世界が変わって行く。


つまり、人間として「普通」に生きているこの現象世界においては
純粋な「客観性」や客体というものは存在していないのだと言える。
ただ、大多数の人にとって「こう見える」「こう感じる」というものが
現象世界においては、「これが客観的」「正しい」とされているに
過ぎないものなのだ。
(そういったある種の基準や「合意」がないと、多くの人々が暮らす
この現象世界での生活が成り立たなくなるため、それはそれで必要なこと
ではある)

では、この記事の最初の方で色々と書いていた、一挙一動全てが仏法、
目の前全てに生(せい)の源がまるごとそのままで現れている、
という話は何だったのか、ということになる。

これは、現象世界を超えたところの話であると言える。

上で書いて来たように、確かに、人間として「普通」に過ごす上では
人はそれぞれ「自分にとって見えている、または体験出来る世界」でしか
生きられない。
そのため、人によって見えるもの、感じるもの、体験出来るもの
というものがそれぞれ違っている。
つまり、それぞれが「違った世界」に住んでいるとも言えるため
中にはどうしてもお互いに通じ合えないことや、理解し合えないこともある。

けれども、どちらが正しい、間違っている、ということではなく
ただそれぞれの体験している世界の種類や質が異なっているだけのことである。

そしてまた、この現象世界においては、この広い世界をまとめるために
一応の基準や合意として「これが正常・普通」とされる見方や世界の在り方が
あるとされ、それは多数決によって決められている。
(そしてこの「多数決」によって「正常・普通」とされる見方や感覚とは
違ったものを持つ人というのは、以前の私も含め、
自分がおかしいのではないか、と自分の在り方に非常に疑問を抱き、迷い、
そして苦しんだりしてしまう。本当は、ただそれぞれのプログラミング、
バーチャルリアリティの設定が違っているだけに過ぎないのだった)

けれども、これらは全て現象世界においての話である。

現象世界というのは、実は「影」の世界であると言える。

「世界は幻想」という言葉を使うと、人によって誤解をしてしまったりする危険性が
あるため、あまり使いたくはないのだけれど、この現象世界を生み出している元
というのがあって、それが生(せい)の源である。

それは現象世界を突き抜けたところにあるとも表現出来るし、また
現象世界そのものに、そのまま現れているとも表現出来る。

その、「現象世界そのものに、そのまま現れている」のがわかるために
上のお釈迦様の公案や、井上禅師の擬音語や擬態語を多用した表現を
アプローチとして使うことが出来る。

つまり、一挙一動全てに生(せい)の源が現れているということ、そして
それぞれの人の見ている、または体験している世界は違っていはいるけれど
でもそのそれぞれの世界全てにおいて生(せい)の源が現れているのであり、
また、究極的には、それぞれの世界を超えたところに、
空(くう)があるのだということがわかるようになるのだ。 

普段は、上でも書いたように、みなそれぞれ自分の世界の中で
「自分がここにいて、自分以外のものを見ている」といった感覚でいる。
そこには、自分という主体と、それ以外の客体とに二分化されている。

しかし、その自分の世界を超えたところに、空(くう)があり、
そこでは主体も客体も(つまり、「私」と「私以外」は)なく
全てが繋がっていて、何も分かれているものがない。
つまり、非二元である。


「自分の世界を超えたところに、空(くう)がある」などと書くと
何だか随分遠い世界のような気がして、「自分にはそんな深遠な世界は
わからなさそうだ」と感じてしまうかも知れない。

けれども、わざわざ難しいことを修行したりする必要はなく、
(例えば、空観がハッキリわかるようになりたい、とそれを目指すのでなければ)
この現象世界を生きながらも、日々それに触れることが出来るのだ。

何故なら、「色即是空、空即是色」であるからだ。

『故事ことわざ辞典』というものに、簡潔で核心をついた素晴らしい
説明が書いてあるので、それをそのまま引用すると、

「色即是空、空即是色」とは、この世にあるすべてのものは
 因と縁によって存在しているだけで、その本質は空であるということ。
 また、その空がそのままこの世に存在するすべてのものの姿であるということ。


ということである。


だから、一挙一動全てが生(せい)の源の現れであり、空(くう)の現れであるのだ。


最後に、混乱を招くのを防ぐために、ここで念のため、私がよく使う
「生命の源」または「生(せい)の源」という表現と、
「空(くう)」について説明を加えると、両方とも同じものを指している。

ただ、「空(くう)」というと、恐らく多くの人にとっては
「何もない、死んだような状態」というイメージを持ってしまうかと思い
(本当は、「何もない」、という意味での空ではなく、
空っぽだけれど、そこには全てのものが在る、というものなのだけれど)
あえてより生き生きとした感覚を連想させる「生命の源」または「生(せい)の源」と
いった表現を好んで使っている。

でも、どちらの表現でも、指しているものは同じものである。


| ダイレクトパス・非二元 |
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