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2015-05-28 (Thu)
[後日 記:

実は、この記事を載せることには非常にためらいがあった。

それは、空観の害が最も出やすいのが、この「他者」というものに
関するものだからだ。

不特定多数の方が読むブログにこれを書いて良いのかどうか、
以前にこの記事を載せた時にも非常に迷った。

しかし、近年では非二元の教えがより知られるようになるに伴って
「自分も他者も幻想」という内容が広く知られるようになったため
注意書きを添えながら、真摯に探求をされている方のために
以前の記事を再度載せることにした。]


「他者」というのは、非二元の世界で言うと何なのだろうか?

「他者がいる」というのは、バラバラに分解すると

 1. 相手の姿形が見える
 2. 相手の声が聞こえる
 3. 相手が動いているのが見える
 4. 相手に関する自身の感情や反応

で構成されていると言える。


これらの要素が集まって、いかにも「自分の外」「自分の目の前」に
他人という存在がいるように錯覚してしまっている。
(もちろん、これは現象世界では必要な認識能力なので
 それが間違っているというわけではないです)


それでは、順に検証してみよう。

 1. 相手の姿形が見える  
  → これは、ただのある種の色・形が浮かんでいるだけ のこと
   (それを、思考が「これは人だ」「相手だ」とラベル付けをしている)

 2. 相手の声が聞こえる
  → これは、ただのある種の音が浮かんでいるだけ のこと
   (それを、思考が「これは人の声だ」「相手がここにいる」と解釈し
    勝手な結び付け、判断をしてしまっている)

 3. 相手が動いているのが見える
  → 1で見た、ある種の色・形が動いているだけ のこと
   (それを、思考が「これは生きている人だ」「怖い」などと解釈し
    勝手に「生きている相手」という独立した個体がいるかのように
    思わせている)

 4. 相手に関する自身の感情や反応
  → 上の1~3のように、「相手がいる」と思う事で、それに伴って
    様々な感情や身体的反応が起こる。
    それにより、ますます「相手」というものがいることを感じてしまいやすい。


この中で一番重要なのが、4である。


実際のところ、上の1~3のような思い込みをもとに、
勝手に感情や反応が起こっているに過ぎないのだが、
これらは非常にリアルなため、ついつい巻き込まれてしまい、
それを信じてしまいがちになる。

そこで、これらの感情や反応(体感覚)の正体をしっかり見破るのが
鍵となる。

実際に生身の人がいる前で検証を行うのは難しいので
(相手が協力してくれているのなら可能だけれど)
一人でいる時に、誰かのことを思い浮かべて検証してみるのがお勧めだ。


誰かを思い浮かべた時、何が浮かんで来るだろう?

「あの人嫌だな」
「何て優しい人なんだろう」
「もうちょっと時間を守ってくれればいいのにな」
「いつも変なこと言って来て、頭に来る!」

などなど、様々な思考が浮かんで来るかも知れない。

また、誰かを思い浮かべただけで、ホッと嬉しい気分になったり
逆に何だか非常に嫌な感じが湧いて来るかも知れない。


その時、以下のように検証してみることが出来る。

1. 相手に関して何らかの思考が浮かんで来た場合
 → その思考 (「この人は~だ」)自体は、その人本人か?
   思考自体が生身の相手(人)か?
   それとも、何らかの思考(その人に関する)思考が浮かんでいるだけか?
   ↓
   それでは、その人はどこにいるのか? 今この瞬間、ここにいるか?
   今この瞬間、ここにあるのは、ある種の思考が浮かんでいるだけ である
  
2. 相手に関して何らかの感情が浮かんで来た場合
 → その感情(ホッとする、ムカムカする)自体は、その人本人か?
   感情自体が生身の相手(人)か?
   それとも、何らかの感情が浮かんでいるだけか?
   ↓
   それでは、その人はどこにいるのか? 今この瞬間、ここにいるか?
   今この瞬間、ここにあるのは、ある種の感情が浮かんでいるだけ である

 (注:ここで、「いやいや、でもその人は今この瞬間にここにはいなくても
  他の場所に存在しているよ!」と思うかも知れない。
  それでは、その思いとは何か?  
  ただのある種の思考が浮かんでいるだけ、ただそれだけであって
  その人が他のところに実際にいることや、他の何であれ、何かを証明するものではない)

3. 上の「思考」と「感情」を確認した後
  ある種の思考や感情が浮かんで来た時といのは、
  大抵、同時に何らかの体感覚もある。
   ↓
  思考や感情はおいておいて、その時に感じる体感覚をじーっと体験する
  (この方法については、これまでに書いて来た通りで、
  それらに言葉でラベルをはりつけず、どんな種類のものなのか断定もしないで
  ただただ、その感覚をじっくり体験してみる。)
   ↓
  あるのは「ただのある種の感覚が浮かんでいるだけ
  というのがわかる


これを繰り返して行くうちに、実際は思考や感情といったものは
実体がないもので、本当にあるのは、ある種の体感覚だけだと
わかるようになることが出来て来る。

それがわかって来ると、更には以前の記事で書いたように
段々と「本当は何も起こっていない」ことに気がつくようになって来る。


そうすると、「他者」がいると思っていたのは全て錯覚で
本当は誰もいないし、何も起こっていない、というのがわかり
全てが透明に、軽やかになって来る。

(透明といっても、目の前の色が実際に透明に変化するのではなく、
 感覚的な意味でのことである)


長年、例えば私が父と呼んでいたのは、
ある種の色・形、動き、そして自分自身の反応、
それらの一連の感覚をまとめたものであって、非二元的に言えば
実際に父といった個別の独立した人がいたわけではなかったのだ。

こうは言っても、やはり亡くなったのは悲しく
あの元気が声が聞けなくなったのは寂しいと感じる時もある。

それは、この現象世界で様々なストーリーをもとに
色々な感情や体験をすることが生(せい)の源を体験することだからである。


危険なのは、この記事で書いたような「他者は存在していない」「幻想」
などと聞いて、それを頭で字面通りに理解してしまうことである。

実際のところ、この現象世界では個別の人に見えるように、生(せい)の源が形を変え
現れている。

全ての人が同じ生(せい)の源の直接の現れである。

そのため、「他者は幻想だから、相手には何をしてもいい」などとするのは
大きな勘違いだと言える。


結局、生(せい)の源がこの自分だと認識しているものとして現れており
同じく生(せい)の源が姿形を「他者」に見えるようにして現れ
お互いのやり取りを通して、生(せい)の源が自分で自分自身を体験しているのだ。

この「一人芝居」に気がつくと、思わず笑ってしまうかも知れない。

そして、本当に生(せい)の源は様々な姿形として現れているな~と
感嘆してしまうだろう。

全ての命、生(せい)の源の現れを慈しみ、大切にする気持ちが自ずと沸いて来る。


(後日注記: この記事に書いた、「他者は色・形、音などから構成されている」というのは
 検証をするにあたっての一種の方便・ツールに過ぎないため
 これを字面通りに解釈し、頭で「他者は単なる色、音だ。存在していないのだ」
 などと捉え、生命の本質を見失うようなことにならないように
 十分ご注意頂きたいと思います。
 
 「他者」も全て、この自分だと認識しているものと全く同じ
 生の源の現れであり、痛み、悲しみ、苦しみを感じる生命体であることに
 何ら変わりはありません。)



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