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2015-05-28 (Thu)
禅やアドヴァイタに出会う前、精神世界の様々な教えに触れていた頃
「この自我、エゴが問題なのだ。これをなくせば、真我、大いなる源と
一体になれる」と思い込み、日々自我、エゴを「浄化」する作業を
行っていたことがあった。

その効果なのか、何度か神秘体験が起こるようになっていたのだけれど
そういったことが起こるにつれ、「もっとエゴを浄化すれば、いつかは
常に真我、大いなる源と一体の状態で過ごせるようになる」と思い、
「もっと、もっと」と自我、エゴをなくそうと、浄化しようと意気込むように
なって行った。


けれども、これでは埒があかない。

何故なら、本当は存在していない「自我」「エゴ」といったものを対象にして
取り組んでいるからだ。


自分は何をもって「自我」「エゴ」だと捉えているだろうか?

「この私、だという感覚」
「自分が選択し、行為をしている、という感覚」
「これまで生きて来た記憶に基づく自分」
「他の人にはない、自分特有の思考や感情」
「自己中心的で、他者をかえりみない部分」
「他者に怒りや恨みなど、”ネガティブ” なことを感じる部分」

例えば、こういったことが「自我」「エゴ」だと感じていることが多い。

それでは、これらは一体何なのか?


それを検証してみよう。

「この私、だという感覚」
 → そういった、ある種の感覚が浮かんでいるだけ

「自分が選択し、行為をしている、という感覚」
 → そういった、ある種の感覚が浮かんでいるだけ

「これまで生きて来た記憶に基づく自分」
 → そういった、ある種のイメージ(記憶)と思いが浮かんでいるだけ

「他の人にはない、自分特有の思考や感情」
 → 「他の人にはない、自分特有の」といった思考が浮かんでいるだけ
 → そういった、ある種の思考、感情(体感覚)が浮かんでいるだけ

「自己中心的で、他者をかえりみない部分」
 → 「自己中心的で、他者をかえりみない」という判断(思考)が浮かんでいるだけ
 → そういった、ある種の思考が浮かんでいるだけ

「他者に怒りや恨みなど、”ネガティブ” なことを感じる部分」 
 → 「他者に怒りや恨みなどを感じる」ことがエゴだという判断(思考)が浮かんでいるだけ
 → そういった、ある種の思考が浮かんでいるだけ


こうして見てみると、「自我」や「エゴ」だと思って来たものは
単なる様々な思考や感情(体感覚)が浮かんでいるだけのものだということが
見えてくる。

それらの思考や感情(体感覚)自体に
「これは自我です」「これはエゴです」と書いてあるだろうか?

そうではなく、それらが自我だというのは、これまで生きて来た中で
徐々に勝手にそれらを「自分」だと思い込んでしまっていただけであり、
また、エゴに関しては、精神世界関連の本や先生などの話から
それらを「エゴ」であると聞き、それを採用してしまったものではないのか。


これまでの記事で書いて来たように、
全ては分解して行くと、ある種の思考、感情(体感覚)が浮かんでいるだけで
それらは「ただそれだけ」のものであって
「自分」「善い」「悪い」などの属性はもっていない。
ただの様々な種類の感覚が浮かんでいるだけ、ただそれだけなのだ。

これまでに「自分」だと思い込んでいたものは
上の「様々な種類の感覚」を色だとすると、
赤、黄、緑、ピンク、青、紫、茶、オレンジ、白、黒・・・
と色々ある中で、何故か特定の色だけにしがみつき、
「緑は自分だ!」とその色に自分というアイデンティティをくっつけて
しまっているだけなのだ。
本当は、その他の色と同じく、ただの色に過ぎないものなのに。


様々に浮かんで来る思考、感情、(体)感覚は
ただのある種の感覚、一種の現象に過ぎない。
誰のものでもないし、そこに何の属性もない。

誰のものでもないけれど、あえて言うならば
それが生(せい)の源そのものである。

なので、「自我」「エゴ」だと思い込んでいる内容は、実は
ただの一種の事象(”色”)が浮かんでいるだけ
だと気がつけば、
自然とそれに同化するのをやめ
本当は「自分」などという独立した個体は存在していなかった、
あるのはただの様々な事象(”色”)のみであって、
「これ」、生(せい)の源だけだったのだと気がつくことが出来る。


「そうは言っても、でもこの”個別”の肉体に特有の思考回路や
感情、経験といったものがあるではないか。他の人は経験しないのに
何故か自分にだけ同じような感情の起伏を繰り返し経験する」
と疑問に思う方もいるかも知れない。

確かに、現象世界の出来事として見ると、それはその通りである。

多くの人は普通、プログラミングによって生きている。

「自分がいると思っていたのは錯覚だった」ということを始め、その他
他者がいると感じる錯覚、物事に因果関係があるという錯覚、
過去・未来があるという錯覚、生と死があるという錯覚、
この世界が「客観的」に外に存在しているという錯覚・・・ などなど
こういった様々な錯覚が見破れるようになって来ると、
身体や思考回路がその洞察に沿うように、作り変えのプロセスが始まることが多い。

それにより、人によっては考え方、見方、性格が大きく変わったり
身体的変化を感じるようになることもある。


しかしその一方、こういった認識のシフトが起こっただけでは
これまで長年の間続いて来たプログラミングは容易には解除されないことも
多い。

また人によっては、これまで目を背けていた心の奥底の痛みや自己嫌悪などに
向き合う必要が出て来るケースもある。

古いパターンのプログラミングによる自動反応で生活し続けていても
認識のシフト後は、大抵の場合「全てがそのままで完全」だと感じるため
そこで敢えてプログラミングをどうこうしようという気が起こらなくなることも
少なくない。

もちろん、そのままで何の問題もないし、それはそれで構わない。

ただ、狭い条件付けの塊である古いパターンのプログラミングによって
自動反応のままに生き続けると、やはり体験できることも
限られたものになってしまう。

真の意味で「自由」に生きること、生(せい)の源の様々な可能性や多様性を
体験しながら生きるには、やはりそのプログラミングによる反応ではなく
それを超えたところで生きて行くことが鍵になるものだと感じる。

それを手助けするのが、例えば体感覚を体験しきること、自愛、
または本心を知るワークなどがあり、それらによって、自分でも気がついていなかった
様々な信念や観念、感情などに気づき、それから解放されて行く。

いずれにしろ、自分に正直になって、自分自身の心の奥底に
向き合うことが大切だと感じる。

そしてそれに伴い、以前と同じような場面に遭遇したとしても
古いプログラミングによる自動反応ではなく、生(せい)の源そのものによって
その場で最適なように動かされるようになるから面白い。

大抵、その結果はこれまでには予想も出来なかったようなもので
生(せい)の源のダイナミックさ、完璧さ、不思議さに感動することが多い。

従って、一部の人々の主張する「目覚めたら終わり」というのは
ある意味では当たっている(ものごとの完全性がわかってしまうため)のだけれど
より様々に生(せい)の源を体験し生きて行きたい、それを体現して行きたい場合は
いわゆる「悟後の修行」が非常に意味を持つものになると感じている。

ある意味、そこからが本当の始まりだと言えると思う。

そしてそうすると、却って「エゴ」や真我と言われているものの性質や
そういったものが区別されたりすることの意味がわかるようになり、
別の観点から、そういったものも意味あるものとして見えて来るようになるのが
また面白く感じる。


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