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2015-05-21 (Thu)
探求・検証を続けていた頃、ある時に自分の行動には
自由意志や選択といったものはなく、それらは錯覚に過ぎないものだと
分かった。

次の検証課題は、人生と他者に関してだった。

私個人の一つ一つの動作に関しては、自分で決めているわけでもなく
選択しているわけでもないということは分かったのだけれど、
人生と他者に関しても、同じように自由意志や選択が出来ないものだと考えると
「怖い!嫌だ嫌だ」と抵抗感が沸き上がって来た。


何故そのような抵抗感が出て来たのだろうか?

それは、人生に関して、自由意志や選択が出来ず
コントロール出来ないとしたら、この先嫌な出来事が起こるかも知れないし
何が起こるかわからず不安で恐ろしいと感じたからだった。

そして他者に関して言えば、もし他の人にも自由意志や選択能力といったものが
なければ、他の人には責任能力がないということになり、
いつ他人から攻撃されたりするか分からないため、
それも不安で恐ろしいと感じたのだった。

この時点では、実は他者に関して、「他者」という実体のあるものは存在していないと
既に見破れていた時期だったのだが、それでも「他者に自由意志はない」と
いう考えには、恐れの感情が浮かび上がって来た。

(余談になるけれど、このように人の信念や感情というものは
 様々な面や部分と繋がっており、単に「自分はいない」「他者もいない」
 ということが見破れただけでは、それで全て解決、という風にはならないことが
 少なくない。そのため、生(せい)の源がわかった後も、引き続き自身の内面に
 正直に向き合い続けることが大切だと感じている)


そこで、一つ一つ検証してみた。

まず、人生に関して。

オーソドックスな方法としては、例えばこれまでの人生の中で
自分の思い通りに行ったケースと、そうでないケースを列挙して
その中で、全てのことを自分の意志通り、選択通りに出来ていたわけではない
ということに気がつくというものがある。しかし、私の場合
この方法では頭ではある程度納得出来ても、感覚として納得出来ないだろうと思い
直接、感覚の方を検証して行くことにした。

「人生をコントロール出来ないとしたら、どうなるだろう?」と自問すると
「・・・不快な出来事が起こるかも知れない、嫌だ!」
という思いが出て来た。

そこで、この思い、感覚をじっと体験してみた。

すると、

「・・・あ!何だ、不快な出来事が起こる、ただそれだけではないか!」

と気がついた。

ただある種の物事が起こる、ただそれだけなのだ。


そして、他者に関しても同じように検証してみた。

私が一番恐れていたのは、他者に攻撃されることだったため、
その恐れをじっと感じて体験してみた。
他人に攻撃されたとしたら、一体何が起こるのか?

「・・・ああ!もし攻撃されたとしても、ただ傷つくという感情が
浮かんで来るだけだ!本当にただそれだけだったんだ」


と気がついた。

実際は、「傷ついた感情」というのは、ただそれだけのことであって
それ自体が悪いことでも怖いことでもないのだが、
私には「傷つくこと」イコール「怖いこと」という勝手な結びつけがあり、
その結びつけを信じていたため、それで怖がっていただけだったのだ。

(方法的には、更にそこから分解して、その「感情が浮かんでいるだけ」というのは
「ただの体感覚が浮かんでいるだけ」というところで体験することも出来るのだけれど
その当時はとりあえず上の方法で恐れが溶けて行った。)

そして、人生に関しても、川の流れと同じように
右へ左へと流れ、勝手に流れるべく方向へと流れて行くのだと感じられるようになり、
また、他者に関しても、とるべく行動をとっているに過ぎず、
自由意志や選択といったものは錯覚だと分かるようになった。


すると、とても大きな解放感を感じると同時に、何故か少し悲しい気持ちにもなった。

それは、これまでの人生、常に自分が努力して頑張り続けて来たおかげで
色々なことが成し遂げられたと思っていたため、
それは実は錯覚で、本当は自分の努力によるものではなかったのだと知り
何だか寂しく、悲しい気持ちが浮かんで来たのだ。

以前に書いた「死など本当はなかった」と気がついた直後もそうであったけれど、
いかにそれが長年の苦しみや不自由さのもとであったとしても
それを信じていた度合いが強ければ強いほど、それが錯覚だったと見破れた時の
ショックや喪失感のようなものは、一種の「反動」として現れることが
少なくない。


そのまま放って置いても時間とともに落ち着いて来ることが多いのだけれど、
今回の場合、「これまで頑張って来た(と思っていた)自分」を労い
自愛をしたのだが、それもまた効果的だった。


もし、「人生はコントロール出来ない」「他者に責任はない」といった言葉を聞いて
抵抗感や不快感、恐れなどが浮かび上がって来るようであれば、
それは錯覚を見破ることの出来る、貴重なチャンスともなると言えると思う。


(後日注記: これも、あくまで非二元、空観に関するアプローチです。
 「人生はコントロール出来ない」というのを頭で観念として採用してしまうと
 むしろ害の方が大きいため、あくまで検証のために自身に正直になって
 取り組むことが重要だと感じています。

 また、いくら「不快な思いをすること、傷つくということが起こる、ただそれだけ」
 だと言っても、誰でも人間である限り、そういった経験をすれば時には辛く
 感じることもあるのは当然のことで、それは認識のシフトが起こった後でも
 人間として生きている間は、同じように様々な感情を感じ、体験し続けて行くもので
 不快な感情や体験が起こらなくなるわけではないです。)



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