12345678910111213141516171819202122232425262728293031
-------- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| スポンサー広告 |
2015-05-20 (Wed)
以前の記事で、体感覚を感じていると
「本当は何も起こっていないということがわかる」と書いた。

全ては自分の想念の世界の中で起こっている。

そして更に言うと、この世界そのものが「影」の部分であり
真の部分では何も起こっていないのだ。


これまでに「現実」と「妄想」を区別すべく
主観と客観に分ける方法など、そういった方面から主に記事を書いて来た。
それで、今この瞬間に実際に起こっていることと、頭の中の思考や判断とを
分けて見破ることを中心に説明して来た。

鋭い方なら、もしかしたら「何だ、そんなものは心理学の範囲に過ぎないじゃないか。
自分が知りたいのは、もっと根本的な本質、この世界が何なのか、ということなのに」
と感じることがあったかも知れない。

いきなり「この世は幻想」などと説明しても、なかなか実感としては分かりにくい。
そこで一番身近なところから検証して行くのが分かりやすいし、
また心の苦しみといったものは、思考や思い込み、勝手な結論付けが要因であることが
少なくないため、そこを最初に検証して行くのが苦しみの解決への近道ではないかと
考えた。

今回は、別の面、つまり「外の世界」とは何か、といった事について検証してみたい。


多くの人は、「自分がここにいて、外部に客観的な確固たる世界があって
自分はその世界を体験している」と思っている。

けれども、実は外部の客観的な世界などというのは存在していない。

例えば、目の前にある花瓶を検証してみよう。

普通は、目の前に陶器の花瓶という独立した個体があるように見え
また、それを触れば固い感じがし、それであたかもそこに独立した花瓶があると
思っている。

けれども、体験をバラして行くと、実際にあるのは

- 何らかの色 が浮かんでいるだけ
  (例えば、白い色)
- 何らかの触覚 が浮かんでいるだけ
  (例えば、ツルツルした感じ、硬い感じ)

これらの集まりであって、何ら「外」に独立した花瓶という個体があるわけではない。

これらの色と手触り、つまり視覚と触覚を統合し、
そこであたかもそこに「花瓶」といった独立した固体があるかのように
錯覚しているだけなのだ。

これは、以前の記事でも書いた、既にあるものから連想が起こり
ないものをあたかも「実際にある」「確かだ」と思い込むんでしまう現象に似ている。

実際にあるのは、何らかの視覚と触覚の感覚(印象)があるだけで
ただそれだけなのだ。
それらの感覚から、「花瓶」というファントムが生み出され、
それを確固たるものだと錯覚してしまっているのだ。

そういった意味で、この世界は五感から成り立っているバーチャルリアリティ
だと言うことが出来る。

色、音、匂い、肌触り、味、といった五感があり、
更にそこに思考や感情が付け加わることによって、
非常に臨場感のあるファントムの世界を体験しているに過ぎないのだ。

そして、これまで書いて来た思考や記憶といったものや
時間や空間といったものを含む、頭での様々な概念も
実体のないものだとわかることによって、色々な事象がバラバラに溶けて行く。

そして、本当は何も起こっていない、ということがハッキリ分かるようになる。

とは言っても、当然、現象としては様々なことが起こってはいるのだけれど
こちらは影の部分で、実際のところ、真実のところは何一つ起こっていないのだ。


そして更に付け加えると、五感や様々な思考、記憶といった概念があるが
それはどうやって体験出来ているのだろうか?

それは、それらを認知することの出来る、意識があるからだ。

それらを知覚・認知することの出来る意識が無ければ、
それらの存在を体験することは出来ない。

つまり、意識があるから体験があるわけで、
意識がなければ体験は出来ない。

何であれ、意識を通して体験されるので
意識と体験は密接につながっていて、切り離すことは出来ない。

実は、意識と体験は一つの同じものなのだ。


体験は、五感や思考、感情といったもので成り立っている。

つまり、これらの五感や思考、感情といったものは
意識がないと体験出来ず、実は意識そのものだったのだ。


こうして事象をどんどん遡って行くと、
実際にあるのは意識だけであって、意識から様々なことが生じ、
体験されていると言える。

精神世界では、よく「あなたの本質は意識です」
「この世は意識で出来ています」と言われるけれど、
私はなるべく「意識」という言葉を使わないでいる。

それにはいくつか理由がある。

まず、「意識」という言葉は、日常で使っている意味での「意識」
(「意識と無意識」、「意識的に何かを行う」など)を連想させてしまい
別の性質のものであると勘違いしてしまう恐れがある。

また、以前の記事にも書いたように、
以前「自分は意識だ」とわかった後、今度は「意識である自分」という
アイデンティティが強くなってしまい、「意識である自分がここにいて
外部の世界を見ている」という、分離感のある観察者の立場になってしまった。

もちろん、この「観察者」というアプローチは、仏教やアドヴァイタでもよく使われるし
それはそれで効果のあるものなのだが、私個人の経験から言うと
かえって生(なま)の体験から離れてしまうような、「意識という観察者」といった
傍観者のようになってしまう感じがあったため、依然として
生(なま)の生命から切り離されていたような感覚があった。

そんなことから、自分が意識であれ何であれ、新たなアイデンティティが
作り上げられてしまう恐れがあるアプローチよりも、
今この瞬間、生(なま)の体験を直に体験できるよう、
そちらのアプローチの方がより人間的であると感じ
主として体感覚などを直に検証するアプローチについて、
角度を変えながらブログに綴っている。
(とはいっても、どちらが正しく、どちらが間違っているというわけではなく
 アプローチの違いに過ぎない)

また、正直なところを書くと、
「意識として見ている自分」と「見られる対象」の二元性が崩れた後は
「自分は意識だ」と表現することに、非常に違和感と不自然さを感じている。
真の自分とは何かとは定義出来ない、といった感覚の方が正確な感じで
あえて何かと定義するならば、一番しっくり来る表現といえば、
生命の源、生命エネルギーといった方だ。
(これも、単なる言葉のラベルに過ぎないけれど)


そんなわけで、私はあまり「意識」といったことについて触れないで
記事を書いて来た。

しかし、上にも書いたように、意識がなければ体験はなく、
究極に存在しているのは意識だけ、というのも真実であるため
今回、「外部の世界」といった確固たる実体のあるものが存在しているわけではないこと
を説明するのに併せて、意識についても触れてみた。

「この世は幻想」と聞いて、頭で理解しようとしただけだと
ニヒリズムや自暴自棄、現実逃避といった方向に行きやすいけれど
しっかりと自身の体験を通して検証してそれがわかって行けば、
実在と幻想の世界が両方同時に矛盾なく存在しているということ
そしてそれらは、実は一つの同じものでもあることがわかり、感じられるようになり
幻想の世界(バーチャルリアリティ)とされる現象世界であっても
生命の直接の表現であることが体験出来、また非常にありがたく感じられる。



| ダイレクトパス・非二元 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。