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2015-05-20 (Wed)
多くの人は、記憶とは過去に何があったかということについて
証明してくれているもののような気がし、記憶というものを特別なものだと
思っている。

しかし、今この瞬間にある自身の体験や体感覚を検証する際、
真実を見破るのに妨げとなってしまいがちなのが、
記憶である。

記憶の正体とは一体何なのだろうか?


今、過去にあった何らかの出来事を思い浮かべてみる。

例えば、前回行った旅行のことを思い浮かべてみるとする。

すると、その時の思い出のイメージが浮かんで来ると思う。
そして人は、「そう、確かに旅行に行った」と思う。

けれども、今この瞬間に実際に起こっていることは何か?

それは、何らかのイメージが頭の中に浮かんでいる、
ただそれだけなのだ。

しかし、人はこのイメージが「正しい」ものだと信じ切ってしまっている
ことが多い。

ここで起こっていることを詳細に見てみよう。
前回の旅行について思い出した際、

1. 何らかのイメージ が浮かんでいる
2. 「これは実際にあったことだ、確かだ」という気持ち が浮かんでいる

しかし、1と2はただそういった事象が浮かんでいるだけであって
単なる一つの事象である2の「気持ち」が、1の正しさを証明できるものではない。

ただの浮かんでいるイメージ(内容は、過去の記憶、ということになっているもの)に
勝手な思考での結び付け、意味づけが行われているだけなのだ。


しかし、「いやいや、そうは言っても、ここに旅行先で撮った写真もあるし
動画もある。それらが証拠じゃないか」と思うかもしれない。

では、そちらの方を見てみよう。

写真とは何か。今実際に起こっていることは何か?

それは、一枚の紙があって、そこに何らかの色やイメージが描かれている。
ただそれだけのことである。

1. 目の前に紙があって、そこに何らかの色やイメージがある
   ということが起こっている
  (更に言うと、その紙自体も実は実体のない、ただの色なのだが、
   それについてはまた別の機会に触れることにする)

2. 「これは私で、こっちは誰々。これはこの前の旅行の写真だ」という思い 
   が浮かんでいる

また、動画についても同様だ。

1. 目の前に画面があって、そこで様々な色やイメージが動いている
  ということが起こっている
2. 「ほらほら動いている。やっぱりこれはあの時の様子だ、確かだ」という思い
  が浮かんでいる

このように、上の写真であれ動画であれ、
実はそれぞれ2つのバラバラの事象が起こっているだけなのである。
1の写真や動画というのは、今この瞬間に見えている何らかの色やイメージに過ぎず
それ自体が何ら過去を証明するものではないのだ。

それらが証明できるもの、確かな証拠だと感じてしまうのは、
それは写真や動画自体がそう言っているわけでも、そこに書かれているわけでもなく
別のところから湧いて来る思考や思いによって、あたかも証拠があるかのように
錯覚してしまっているだけなのだ。


そうは言っても、実際に旅行に行ったということ自体が嘘なのではない。
もちろん、実際に旅行には行った。
旅行に行った時点では、その時にとっては「今」の体験であったわけで
その時に「これは過去なのだ。私は過去を生きている」などと思いながら
旅行を楽しんでいたわけではない。
その時は、確かに紛れもなく、「今この瞬間」旅行ということを体験していた。

しかし、それはその過去の時点では事実であったけれども
今この瞬間に関しては、目の前で実際に旅行というものが起こっているわけではない。

今実際に起こっているものは、目の前に見える何らかの色やイメージ、
そして頭の中に浮かんでいる何らかの色やイメージ、
それしか無いのである。


しつこいようだけれど、更にもう一つ例をあげると

「でも、その旅行の時に買ってきたお土産がある。
このお土産は、そこでしか買えないものだ。
それがここにあるということは、やっぱり旅行に行った証拠じゃないか」
と思うかもしれない。

ここで実際に起こっていることは、

1. 目の前に、何らかの物体が見える ということが起こっている
  (この物体に関しても、実は実体がないものなのだが
  それは上の紙のところで触れたように、改めて別の機会で説明する)

2. 「このお土産はその地域でしか買えない物だ。だから旅行に行った証拠だ」という思い
  が浮かんでいる

この2つのバラバラの事象がただ起こっている、
ただそれだけなのであって、そこには何の因果関係もないし
何かを証明するものでもないのだ。

そういった意味で、目の前にある写真や動画、物、そして記憶といったものは
今この瞬間に起こっている独立した新たな一つの現象であって
それ以上でもそれ以下のものでもないのだ。


自分というファントムにしろ、その他様々な事象に関して検証するにしろ
何かをじっくり検証し始めたところまではよいのだが、その後
「これは○○だ」という断定や思いが浮かんで来た際、
それは実は単なる事象の一つであって、何ら他の事象を証明するものではない
ということを、どうしても見落としてしまいやすい。
無条件にその断定や思い、記憶、「~な気がする」といったものを本当のこととして
採用してしまうのだ。

そのため、「○○なのは明らかなのに、う~ん、どうしてもよく分からないなあ」
と、行き詰ってしまうのだ。

しかし、その「明らか」だと感じるところこそ、実は立ち止まって
十分に検証してみる必要があるのだ。

以前の記事にも書いたことだが、非常に重要なことなので
改めて書くと

 一瞬一瞬、自分に100%正直になって、
 「今この瞬間に起こっていることは何か。
 今この瞬間に自分が直接体験していて、知ることが出来ているものは何か
」と
 これまで貯めて来た知識や教え、思い込み、推測、期待、イメージを捨て
 勇気をもって直の実体験に向き合うのが鍵だ。

 そこで、その場でそこにある情報のみから自分が知ることが出来るのは何か、
 推論や頭での関連付けを行わず、検証して確かめ、直に体験して行く。


ここで、今回は新たに「”記憶” も捨てて、検証する」と追加したい。


記憶がなく、今生まれたばかりのようなまっさらな感覚になって検証をすると
よそから引っ張り出して来て、何かを結論付けたり意味づけをすることが
出来なくなる。
何故なら、何らかの結論や推測、意味づけといったものは
過去の経験が積み重なって、その中で生み出されて行ったものだからだ。

記憶といった実体のないものを拠り所とするのではなく
本当の意味で今この瞬間に起こっていることを検証してみる。

そうすると、これまで「当たり前、確かだ」と思っていたことが
実は単なる勝手な結び付け、意味づけであったことが見えてくる。

そして、事象はバラバラにほぐされて行き、真実が明らかになって来る。

直に生(なま)の体験が出来るようになり、非常に面白い。


(後日注記: これは、非二元、空観へ至るためのアプローチであるため
 現象世界で普通の暮らしをする際には、記憶は普通の「記憶」として
 使用することになり、それには何の問題もないです。

 上の記事を、「記憶は幻想であり真実でない」などと観念で採用してしまうと
 正常な生活が出来なくなってしまうため、そこは注意が必要だと付け加えて
 おきたいと思います。)



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