123456789101112131415161718192021222324252627282930
-------- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| スポンサー広告 |
2015-05-11 (Mon)
「個人に自由意志はあるか」ということについて
何が本当のところなのか疑問に思ったことがある人は多いと思う。
私自身、このことについて随分と悩んでいた。

自由意志があるかどうかについて調べれば調べるほど、
様々な主張があることが分かり、それぞれが相反するものだったりして
どれが本当のことなのか余計に混乱してしまったりした。

例えば、

● 自由意志なんてものは全くない

● 全てはプログラミングであり、人はそのプログラミングによって
  自動反応しているに過ぎない

● 神様が全てを創った。神様は自身の分身である人間を創り
  個々に自由意志を与えることで、様々な経験をしようと考えた。
  この個々の自由意志は神様も介入することが出来ない領域のもので
  全て個々人に責任がある

など、一体どれが正しいのか困惑することも少なくない。

では、何が本当なのだろうか?


ダイレクトパスの方法で一つ一つ検証してみよう。


まず、「自分が意図的に選択をしている」ということが
本当のことなのか確かめてみる。

例えば、「コーヒーにする、紅茶にする?」と訊かれて
「う〜ん、紅茶にする」と答えたとする。

この場合、紅茶を選んだのは自分が選択をしたからだ、と
感じることが普通だ。

でも、これは本当なのだろうか?

コーヒーにするか紅茶にするか考えながら、ふと
「紅茶にしよう」という考えが浮かんで来た。
場合によっては、「本当はコーヒーが飲みたいけど、
今日はもう3杯も飲んだから、紅茶にした方がいいかな」と思って
それで紅茶を選ぶことにしたかも知れない。

いずれにしろ、どこかの時点で「紅茶にしよう」という
考えが浮かんで来たのは事実だ。

では、この「紅茶にしよう」という選択、思いはどこから出て来たのか?

もし全てを本当に自分が選択しているのであれば、
「ここで紅茶にしよう、という思いを浮かばせよう」と前もって
そのことを選択して決めていた自分がいるはずだ。
そして、さらにそう選択することを選択していた自分もいるはずで、
この「選択の選択」のプロセスは永遠に遡ることが出来るはずである。

けれども実際のところ、そんな風に辿ることは不可能で
ある時点で「紅茶にしよう」という考えがどこからともなく浮かんで来た、
というのが正しいのではないだろうか。


次に、「意志」の働きについて見てみる。

今までは無自覚に呼吸をしていたが、ここからは意識的にゆっくり大きく
息を吸って吐いてみることにする。

息を大きく吸って・・・・ 吐いて・・・

これは、自分の意志で行ったかどうかと訊かれれば、
「間違いなく自分の意志で行った」と普通は思うだろう。

ここで、実際に本当は何が起こっていたのか、一つ一つ見てみることにする。

この「意識的に息を吸って吐く」という一連のプロセスは
大きく3つに分けることが出来る。

1. 「よし、これから大きく息を吸って吐くぞ」という思い
2.  実際に呼吸がゆっくり大きく行われる
3. 「ほら、自分の意志で呼吸をしたよ!」という思い

実は、これら3つの出来事は、それぞれ何の繋がりも因果関係もない。

1で、まずある種の思い、つまり思考が湧いて来た。
2で、ある現象が起こった。
3で、ある種の思い、つまり思考が湧いて来た。

ただそれだけなのである。

この3つのバラバラの現象(思考 → 呼吸 → 思考)が順に起こっているように
感じるため、それらが全て関連していると錯覚してしまっているだけなのだ。

実際に起きているのは、3つのバラバラの現象が起こっているだけ。

それを「よし、これから大きく息を吸って吐くぞ」という思考の内容が
その次に起こった、実際に呼吸が行われたという現象の内容とマッチするため
あたかも自分の意志によってそういった現象が起こったと勘違いしてしまうのだ。

そこで更に、「ほら、自分の意志で呼吸をしたよ!」という思考が湧いて来て
今度はその思考の内容を「真実」だと信じてしまうため
「やっぱり、自分の意志で物事を引き起こしている」とますます信じ込んでしまう。
実際は、「ほら、自分の意志で呼吸をしたよ!」という一種の思考が湧いて来ただけで
その思考自体はただの一種の現象に過ぎず、何ら真実を表しているものではないのだ。

このプロセスが見破れるようになると、様々な現象がバラバラにほぐされて行き、
どんどん物事が透明になって行く。

そして普段、いかに色々なことを勝手に結びつけ、勘違いをしていたかに気がつき
笑い出してしまうかも知れない。


それでは、冒頭の自由意思に関する3つの主張に関して、
1つづつ順に見て行こう。

● 自由意志なんてものは全くない

「自分」という個人が存在しており、その「個人」が真の自分の姿であるという見方は
非二元の次元から見ると、錯覚であり、実在していないファントムを「自分」だと
誤って思い込んでいるものだと言える。

そのため、そのファントムに自由意志があるかどうかという話自体が
意味のないことになる。

そういう意味で、「自由意志はない」と言える。


● 全てはプログラミングであり、人はそのプログラミングによって
  自動反応しているに過ぎない


全ての人は遺伝的要素、生まれ育った環境や経験などによって
どのように反応するかということが条件付けられてしまっている。
(場合によっては、過去生の経験によって影響を受けていると
言われるケースもある。生まれ変わりというのは非二元的に言えば
存在しないものだけれど、現象世界の事象としては
ある種の見方をすればあるとも言えるので、一応言及しておく)

そして成長するにつれ、これら様々な要因による条件付けが
確固たるものになって行き、気がついた時には、この条件付け、
つまりプログラミングによって自動的に反応し生きている状態になっている。

例えば、俳優のAさんとBさんのどちらが好みかと訊かれた場合、
人によって好みは分かれる。
しかしこの好みは、自分の意志で「私はAさんの方を好きになるのだ」と
決めて生じたものではなく、何となく、自ずと湧いて来る感情だ。

そういう意味では、自由意志はなく、その個々人のプログラミングによって
あるタイプの人を好み、またあるタイプの人には魅力を感じないという風な
感情が湧いて来るようになっているに過ぎない。

このように、人の好みに限らず、ありとあらゆることは
その人のプログラミングによって行われている。

そういう意味で、「自由意志はない」と言える。


● 神様が全てを創った。神様は自身の分身である人間を創り
  個々に自由意志を与えることで、様々な経験をしようと考えた。
  この個々の自由意志は神様も介入することが出来ない領域のもので
  全て個々人に責任がある


「神様」と聞くと、あたかも人間のような姿形をした一人の絶対的な力を持つ存在がいて
その「神様」とやらが全てを創り、支配しているかのように感じる人が多いのでは
ないだろうか。
そのイメージからすると、その「神様」が全てを創り、その分身である人間を創り、
個々人に自由意志を与え・・・というストーリーは、かなり納得が行くように感じると思う。

またこのストーリーは、
方便ではあっても、多くの苦しんでいる人たちにとっては
とても優しいアプローチで、「個」(それぞれの生命の現れ)を尊重したものであり、
ある意味、とても素晴らしいものだと私は感じる。
(また、このストーリーやアプローチは、現象世界において
 実は重要な意味があるものだと感じている)

なぜなら、自分というファントムがまだ存在していると感じている場合、
「自由意志はない」などと言われてしまうと、恐怖感に襲われたり
無気力感、ニヒリズム、自暴自棄といった方向に行ってしまう可能性が
少なくないからだ。

精神世界や「真理」に関心を抱く人のうちの多くは、様々に悩み苦しんでいる。
そういった人に、いきなり「自由意志はない」などとただ言ってしまえば
更に恐怖を覚え、絶望感に襲われてしまうケースもある。

もちろん、「そうだったのか、自由意志があると思って
あれこれ悩んで来たけど、全て勘違いだったのか!」と気づき
解放感を感じる人もいるかも知れないけれど、そういったケースは稀のようだ。

また、そう気づいたと思っているだけで、実は「自由意志はない」ということが
責任感という重圧から逃れるための新たな観念、一種のツールと
なってしまっていることも少なくない。


・・・と、ここまでは非二元、空観の観点から説明をしたけれど、
現象世界で起こる様々なものは全て生(せい)の源が形を変えて現れたもの
であり、現象世界で「自由意志」のように思える現象があるのは確かである。
この個々人の「自由意思」というのも、生(せい)の源が形を変えて
現れたものである。

つまり、本当のところと言えば、自由意思はないとも言えるし、あるとも言える
ということになる。


「一体どっちなんだ?」と不満に感じるかも知れないけれど、
いずれにしろ、他の人がどう言っているか、「偉い」先生がどう言っているか、
聖典がどう言っているか、ということを鵜呑みにするのではなく、
自分の直接の経験ではどうなのか、自身で確かめてみることが重要だと思う。

自分で検証して確かめ、本当にわかった時、
一見相反するように見える上の3つの主張も、それぞれ言わんとするところが
わかるようになり、実は何も矛盾していないということが見えて来る。

そのため、色々な教えや主張に関して、頭で考えてつじつまを合わせようとしたり、
どの主張が自分に一番しっくり来るか、気分が良くなるか、といった基準で
そのまま採用してしまうのではなく、それらを全て捨てて
自分で直接確かめてみることが鍵になると感じている。

どこまでも自分に正直に・・・。



(後日注記: これは、あくまで非二元、空観に至るためのアプローチであり、
 現象世界で一人の人間として生きて行く上では、自由意思や選択の自由という
 機能や現象は、ある意味では存在しており、起こっていると言えます。
 上にも書いたように、一見矛盾したように思えるかも知れないけれど、
 「自由意思や選択の自由」はないとも言えるし、あるとも言えるものです。

 もし、非二元でいう「自由意思はない」ということが、自身の体験や洞察を通して
 真にわかったのではなく、観念として教えを採用しようとしているのであれば
 それは無気力感や逃げとなってしまう恐れがあるため、注意が必要だと
 感じているところです。

 そうであれば、むしろ「自由意思や選択の自由はあるのだから、常に自分で
 道を開こう!」という姿勢で生きて行く方が、より健全であるし、自身の生命と
 同調しやすい生き方であると感じます。)



| ダイレクトパス・非二元 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。