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2015-04-30 (Thu)
探求中、生(なま)の生命を体験するべく、訓練と称して一生懸命に
五感や体感覚に意識を集中させることをしていたけれど、
ある意味、それは生命の在り方とはむしろ逆なのだった。

生(せい)は、努力や集中などしなくても、今この瞬間にちゃんとある。

空腹を感じ、むずがゆさを感じ、痛みといった体の感覚を感じる。
そういった体感覚は、感覚と生命が一つになって現れている。
そういった、何らかの感覚を感じるということは、もうそのこと自体が
生(せい)・生命を感じ(体験)している、ということなのだ。

わざわざ自分が努力して達成する必要のある種のものではないのだった。


でも、「それでも”自分”と”世界”が切り離されているように感じることが多い。
かすかに二元的な感覚が残っていて、それが気になる」と
思わずにはいられない場合もあると思う。

そんな時、よく「行為者はいない。よって、出来ることは何もない」という
教えを目にすることがあるけれど、私はそれでは却って
相手を惑わせることになる危険があると感じている。
(もちろん、その教えのおかげでハッと目覚めることが出来るケースも
あるとは思うし、それはそれで素晴らしいことだけれど)

無理やり「”自分”というものはファントムだ、いないのだ」
と思い込もうとするよりも、「自分」がいると感じていることを一旦認めて
そこを出発点とし、
「さあ、本当に”自分”とはいるのか?
私は何をもって”自分がいる”と感じているのか?」
と、その「感じている」正体・原因を一つ一つ検証していけばいいのだと感じる。


これは、「自分」というファントムに関してだけでなく
その他、様々な事象や体験についても同じことが言える。

「真実」を知るのに、そして生(なま)の生命を体験するのに、
様々な教えや高尚な観念は必要ない。
むしろ、邪魔になるし、増々生命の直接体験から遠ざかる。


一瞬一瞬、自分に100%正直になって、
今この瞬間に起こっていることは何か。
今この瞬間に自分が直接体験していて、知ることが出来ているものは何か
」と
これまで貯めて来た知識や教え、思い込み、推測、期待、イメージを捨て
勇気をもって直の実体験に向き合うのが鍵だと言える。

そこで、その場でそこにある情報のみから自分が知ることが出来るのは何か、
推論や頭での関連付けを行わず、検証して確かめ、直に体験して行く。
そうしているうちに、様々な思い込みや勝手な関連付け、錯覚などが明らかに
なって行き、真の姿、生(なま)の生命が直に見え、直に体験出来るようになってくる。


知識や観念、意識的な判断など、そういったものがなく
ただ直に物事を体験している時というのは、もう生命の源そのものになっているのだ。
思考が「いや、まだ何か違う。足りない」と言っているだけで
本当はちゃんと生(なま)の生命を体験しているのだ。

なぜなら、本当はこの生(なま)の生命しかないから。


人間として生きていれば感じる、悩み、苦しみ、迷い、喜び、感動といった
全ての体験そのものが生命そのものであって、生命から離れているものは何もない。
何も間違っているものはなかったのだ。

この人も、あの人も、この動物もあの植物も、
そしてこれまでに経験して来た様々な悲しみや苦しみも、
この生(なま)の生命の躍動感を感じられる歓びも、
全てが生命の現れだ。

そして、「この人」、「あの人」、「この動物」、「あの植物」があると
認識出来た時点で、もう生命の現れと一体になっているのだ。
あらゆる感情や体感覚を感じている時、それを感じているということ自体が
もうすでに、生命を直に体験していることなのだ。

そして更に、生命を直に体験しているということは、
それ自体が生命の働きなのだ。
つまり、何かを体験している私は、生命そのものであって
私である生命を色々な体験という形で経験しているだけなのだ。

だから、何を感じても、何を体験しても、間違っているものなど
一つもない。
全てが生命の現れであり、生命の体験以外のものは何もないのだから。


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