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2015-05-01 (Fri)
長い間ずっと、私は「感情」というものがあると思っていた。
もちろん、誰でも喜怒哀楽その他様々な種類の感情を体験するので
ある意味、あると言えばある。

でも、その感情の実態(非二元でいうと)は、「感情」という独自のものが
存在しているというよりは、

(体の)感覚 + 言葉でのラベル

という複合体のようなもので成り立っていると言った方が
より正確に感じる。


感情というのは、特にその種類が恐れや不安などの場合、
圧倒的な力を持っているように感じ、その恐れや不安に呑み込まれてしまいやすい。

「死」という概念にまつわる漠然とした恐れに関して、
以前の記事で書いたように、それを注意深く観察していると、
まず始めに気がついたのが

・・・胸の辺りに、「怖い」という感情が浮かんでいる。

ということだった。

そこから「死」というものは単なる概念であって、実際には存在していないということに
気がついて行ったのだが、次に、この「怖いという感情が浮かんでいる」とは
一体どういうことなのか、その正体を調べて行った。

そこで、名前や知識、記憶などを頼りにするのではなく、
「今この瞬間、実際の体験から直接わかることは何か。何が起きているのか」を
見てみることにした。

すると、「怖いという感情」が一つの個体として浮かんでいるわけではなく
実際にあるのは、胸の辺りに何らかの感覚(渦巻いているような
言葉では表現しずらい感覚)が宙に浮いているだけだった。

何らかの感覚がそこにある。
それはまぎれも無い事実だ。
けれども、それはただの感覚がそこにあるだけであって、それ以外の情報は何もない。

そこで気がついた。

感情の正体は、本当は何らかの感覚(体感覚)があるだけなのだ。

その体感覚には色々な種類がある。
飛び跳ねるような軽やかなものもあれば、ドゥーンと重い感じがするもの、
ウニュウニュしたようなわけの分からないもの、ドキドキしている感じのもの、等。

そして、それらの様々な種類の感覚に対して、
「嬉しい(喜び)」、「悲しい(悲しみ)」、「不安だ(不安)」、「怖い(恐れ)」
などの呼び名をつけて区別しているだけなのだ。

そういった呼称を捨てて、ただ純粋な体感覚を注意深く見てみると
それらの感覚はただ感覚として存在しているだけであって
それらの感覚自体が「この感覚は不安というんですよ」
「私は不安という名前です」などと言っているわけではないし、
そこにそう書かれているわけでもないことに気がつく。

ある種の体感覚を、例えば「不安」と呼び、カテゴリー化するのは
それはこれまで習得した知識を呼び起こして行っているに過ぎない。

今ある体感覚は、生きている。
以前に体験したことがある感覚に似ているかも知れないけれど
それでも、今この瞬間にある体感覚は、生きていて、全く新しいものだ。

そこに「これは ”不安” だ」などと瞬時にラベルを貼ってしまうと
その生きた感覚は死んだものにされてしまう。
「不安」という概念を通してしか、その感覚を体験出来なくなってしまうのだ。


私は以前、よく予期不安や恐れを感じることが多かった。
まだ起こってもいないことに不安になり、また恐れるのだ。
特にこの恐れの方は厄介で、過去に怖い思いをした経験が思い出され
更に恐怖が増し、「また同じことが起こったらどうしよう」と
更に恐れるようになる。

雪だるま式に膨れ上がって、手のつけられないモンスターのように
なってしまうのだ。
こうなると、もうこの恐怖に圧倒されてしまって、
とてもではないけれどまともな判断が出来なくなってしまう。
ある意味、「催眠」に入って自分だけの妄想の世界に行ってしまっているのだ。

けれども、本当は「恐れ」という独立したものがあるわけではなく
実際には何らかの体感覚(例えば、胸の辺りがドキドキしている、体が震えるなど)が
起きているだけで、それ以外は何も起こっていないのだ。
本当に、ただそれだけなのだ。

人が怖がっているのは、その体感覚の方ではなく
「恐怖」にまつわるイメージや概念の方を怖がっているのだ。
その「恐怖」とやらの正体をしっかりと検証して確かめることをせず
やみくもにそのイメージを怖がっているだけなのだとも言える。

不安や恐れを感じたら、そこでその感情に圧倒されるのではなく
勇気を持ってその正体を見てみれば、徐々にその姿が明らかになって来る。

・・・実際に起きているのは、何らかの体感覚があるだけ・・・

すると、本当は「不安」も「恐れ」も実際には概念に過ぎず
何ら実体のあるものではなかったことがわかる。
自分が勝手にその体感覚とそれらの概念を結びつけていただけで
実際にはそれらは何の関係もなかったのだ。

な〜んだ、怖いと思っていたけれど、実際はある種の感覚が浮かんでいるだけ、
ただそれだけだったのか、と笑い出してしまう。


最初のうちは、心臓がドキドキしたりすると、一瞬パニックになってしまう
かも知れない。

でも大丈夫。

そこで浮かんで来る「大変だ!」という思いと不安は
頭の中で創り上げた妄想に過ぎず、実際に起こっていることとは
全く関係ない。

ただ実際に起こっていることは何だろうと、生(なま)の体感覚を
体験
してみることが鍵だ。

そうすれば、どんなものであれ、ただの感覚があるに過ぎないことがわかってくる。

そして、そうなると、一つ一つの体感覚が生きているのが直に感じられ、
面白くなってくる。


 感情 = (体の)感覚言葉のラベル

このうち、体感覚は「現実」、言葉のラベルは「妄想」とも言える。
実際に起こっていること、現実、真実は、ある種の体感覚があるということだけだ。

よって、良い感覚、悪い感覚などないし(それはまた頭での判断であり「妄想」)
よく言われるような、ポジティブな感情もネガティブな感情もない。
どちらも、ただの異なった種類の体感覚があるに過ぎない。


生き生きとした、生(なま)の体感覚。
躍動している生命。


(後日注記: ここで書いた方法は、非二元の世界、空観の認識に至るための
 アプローチとなっています。
 空観という「山」から下り、現象世界で普通の人間として生きる場合であれば
 このように感情を空(くう)の次元に「解体」するのではなく、
 丸ごと受け入れ体験することも大切になって来るため、
 このアプローチはあくまで空観に至るためのものだと捉えて頂ければと思います。

 また、ケースによっては、自分自身の内面の感情や思いに耳を傾け、そのまま認めて
 あげることが必要なものもあるため、それらを避けるために上のアプローチを
 使うのではなく、あくまでご自身の心の声の判断に従って、臨機応変に
 取り組むのが一番だと思います。)



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