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2015-04-27 (Mon)
この現象世界においては、まぎれもなく「自分」という個人が
存在しているけれど、非二元、生(せい)の源といった次元でいうと
個人の「自分」というものは、実は実体がないもので、
本当は存在していない。

とは言っても、ほとんどの人は「いや、確かに自分は存在している。
ここに自分の肉体があるし、自分特有の思考や感情がある」と感じると
思う。

確かに、現象世界においてはその通りである。

それが例えば、ダイレクトパスの方法により、これまでこの「当たり前」だと
思っていたものの真の姿に関して検証し、その「トリック」を見破ることが
出来得る。



大学の犯罪心理学の授業で、こんな実験があった。

教授が、例えば、「銀色、長い、痛い、細い、軽い、光る」などなど、
15個ほどの様々な単語を読み上げて行った。

この実験は、その単語リストが読み上げられた後に、
どの単語がリストに含まれていて、どの単語が含まれていないかを想起して
正解を当てるものだった。

面白いことに、クラスの9割以上の人が、本当はリストに含まれていなかった
「針」という単語を「確かにリストに含まれていた」と回答した。

様々な単語を聞いているうちに、自然とそれらの単語から連想される「針」
(銀色で長く細い、軽い、刺されると痛い、というもの)を作り上げて
しまったのだ。
そして、実際に聞いた単語と、頭の中で自分の連想によって作り上げた単語との
区別が出来なくなってしまっていた。

つまり、「現実」と「幻想(思い込み、錯覚)」が正確に見極められなく
なってしまっていたのだ。


この現象は、人が「自分」というものが確固たるものとして存在している
(そしてそれが真の姿だ)と錯覚してしまうことと
非常に似た原理が働いているものだと感じる。

この「体」という個体があるように感じるが、実際にあるのは体のように見える色と形、
そして感覚があるだけで、更にそこに思考と感情が加わることによって、
あたかもそこに「自分」という個人が存在しているように錯覚してしまっているだけなのだ。

これらの感覚、思考、感情のコンビネーションによって、本当は存在していないはずの
「自分」というファントムが生み出され、多くの人はこのファントムを真の姿だと
思い込んで、過ごしている。

では、自分がこれまで「自分」だと思って来たものは、本当は何で構成されていたの
だろうか?
本当のところ、何が「自分」なのだろうか?
「真の姿」とは何なのだろうか?

それを検証によって見てみよう。

これまでメールでダイレクトパスのセッションのようなものを
数人の方々とやり取りさせて頂いたことがあり、ここから下は
主にそのメール内容から抜粋してまとめたものを載せてあります
(一部、過去の記事に手を加えたものもあります)。

****************

1. 自分とは思考である

もし思考が本当に自分なのであれば、思考が無い時は自分は存在していないことに
なります(思考=自分、のため)

では、今から10秒くらいの間、何も考えないでみて下さい。

・・・・・・

こんな感じになりますね。

その間、自分は存在しないで消えてしまったでしょうか?
確かに思考はなかったはずですが、自分は相変わらず存在していますね?

すると、自分は思考そのものではないということになります。

今こうして見ると、「今は思考が浮かんでいる」「さっきは思考がない状態だった」
と認識出来ているわけです。

その認識しているものこそ、本当の「自分」なのです。

つまり、思考があることを認識している者、
また思考に巻き込まれていることに気がついている者、
思考がない状態だと感じられる者、
こちらの認識する側(意識)の方こそが「自分」なんですね。
思考のあるなしを背景で認識している存在・機能・・・。

「あれ?自分というのはファントムで存在しないと言っているのに
認識する側が自分、なんて言うのは矛盾しているじゃないか」と
思われるかも知れません。

その通りで、上の「認識する側が自分」というのは、ある意味方便です。

ただ、思考が自分だと感じてしまっている場合は、
最初から「自分はいない」ことを見破るよりも、
「思考そのものではなく、それを認識している側が自分、意識が自分」だ
というアプローチの方が思考に巻き込まれにくく、その先に進みやすくなることが
多いため、ここで一緒に書いてみました。

非二元の方法だと、最初にこの「自分は意識である」ということに気がつき、
その後しばらくの間、「意識である自分がここにいて、思考や感情、その他
外の世界を観賞している」という感じになるケースが多いです。
そして最後には、その二元性も崩れて
「自分」と「それ以外のもの」という区別がなくなる流れとなります。

ただ中には、最初から「自分はいなかった」とわかるケースもあり
こちらの方が早いと言えば早いですが、どちらのパターンが自分に適しているか
というのは人によって違うようです。


2. 自分とは感情である

様々な感情を感じるため、自分は感情ではないか、と思うかも知れません。

しかし、上の思考の例と同様、自分が何も感じていない時というのは
自分は消えてしまっているでしょうか?
もし感情が自分なのであれば、何も感じていない時というのは
自分自体も消えてしまっているはずですが、そうはなりませんね。

「今何らかの感情を感じている」「ああ、もう不快な感情がなくなった」
など、それらを「背後」で感じている存在・機能が常にあるわけです。

それが、本当の「自分」であると言えます。

(この「自分」というのも最後に崩しますので、それには下をお読み下さい)


3. 肉体が自分である

肉体が自分だという思いを抱いているケースは非常に多いです。
それではまず、具体的に肉体のどの部分が自分だと感じているでしょうか?

あまり良い例ではないですが、もし自分の身体の一部が無くなってしまった
として、その一部がなくなっても自分は相変わらず自分でしょうか?

もしそうであれば、身体のどこからどこまでが「自分」だと感じるでしょうか?

多くの人の場合、胸の辺りが自分だと感じるケースや、頭(目の後ろ辺り)が
自分だと感じるケースと分かれるようです。

では、胸の辺りが自分だと感じるケースの場合、これを検証してみましょう。

胸の辺りに「自分」がいると感じるのであれば、目を閉じて、
じっくりその感覚を味わってみます。

すると、言葉では表現しにくいような、何らかの感覚をそこに感じると思います。
ギューンというような感覚、うずくような感覚、ギューッとするような感覚・・・
そこにそういったような何らかの感覚を感じるということ、それは「現実」であり
まぎれもない「事実」であります。

けれども、多くの人はこれらの感覚を「自分」というものに勝手に結び付けて
しまっているのです。

実際にあるのは、この何らかの感覚、または「何とも表現しにくい感覚」が
宙に浮かんでいるだけであって、それが「自分」であるという結論付けは、
頭の中で勝手に行ってしまっている推論 (もっと厳しく言えば、「妄想」であり、
幻想)に過ぎないのです。

特に、これまで様々なスピリチュアルな教えを学んで来た場合、
どうしても「真我は胸の中央にある」という教えが頭の中にあり、そのため、
この胸の辺りに感じる感覚は真我がここにあるということだ、と
自動的に頭の中の観念と実際に感じている胸の辺りの何らかの感覚を
結びつけてしまいます。

けれども、ダイレクトパスで検証する際に最も重要なことは
これまで習った知識や教えを全て投げ捨て、今この瞬間、
実際に今ここにあるものは何なのか、100%正直になって確かめてみる
ことにあります。

そうすることによって、初めて、観念というフィルターを通さずに
目の前のありのままの真実が見えるようになるからです。

これまで学校で習った生物学の知識やスピリチュアルな教えなどを、
とりあえず今は全て脇に置き(それらの知識が悪いわけでも
役に立たないわけでもないのですが、今検証をする間だけは邪魔になるため
一旦そこから離れ)、ただ純粋に今起こっていることを感じて見てみます。
 
すると、胸の辺りに感じるのは、ある種の感覚があるだけであって
それ以外は何もないということがわかると思います。

あるのは、言葉では表現しずらい、何らかの感覚が浮かんでいるだけなのです。

そこに、上でも触れた心理学の実験で見られたような
実際にあるものから新たな連想が起こって、ないものを「ある」「確かだ」と思い込む、
そういう現象が起きているだけなのです。


また他にも、「自分はこの身体の中にいて、身体を通して考え、世界を見ている」
という感覚がするケースも多くあります。

実際のところを言うと、身体(だと現象世界では呼んでいるもの)は
ただの色と形が現れているものであって、その中に何かを含んでいるわけでは
ないのです(これは、あくまで非二元と現象世界のトリックを見破るための
アプローチの一つであって、現象世界での様子のことではないです、念のため。)

この身体を含む現象世界の様々なものが単に色と形の現れであるというのは、
グレッグ・グッドの ”The Direct Path: A User Guide” に非常に詳しく
検証方法が書かれてあります。

また、「自分という身体、脳の中に自分独自の考えが浮かんでいる」と感じてしまい
だからこれは「自分の考え」だと思ってしまいやすいのですが
非二元で言うと、思考は身体や脳の中に浮かんでいるのではなく、
ただ「空中」に浮かんでいるだけなんですね。

というのも、そもそも身体というのは色と形がそう見えるだけのものであって
身体という個体があるわけではないため、何か(思考など)を入れることが出来るような
器ではないからです。


4. 意識である自分はここにいて、外の世界を観ている

上にも触れたように、「本当の自分は、思考でも感情でも身体でもなく、
意識の方だった!」ということに気がつくと、それはそれで非常に大きな解放感を
伴うため、その後しばらくの間、「意識である自分」という状態で過ごすように
なることがあります。

けれども、これだとまだ「〜な自分」という何らかのアイデンティティに
自分を同化しているままであり、また「自分」vs 「世界」という
二分化した分離感が残っているままです。

この「最後」の分離感を崩すには、「意識である自分」という観念をも
疑ってみることが鍵となります。

実際、頭で何かを考えなくとも、目には勝手に何かが見え、
音が勝手に聞こえ、何かを勝手に感じています。
それらを認識している機能が常に働いているわけです。

つまり、それらを「この機能は自分だ」という頭での結びつけ、
レッテル貼りをせずとも、その機能は常に存在し、機能し続けているわけです。

「この機能が本当の私なのだ」という結びつけやレッテルは
後から追加されたものなのです。

本当のところは、「これが自分」と指すことが出来ないものであって
言い換えると、「自分はいない」または逆に、「全てが自分」であると
表現することも出来ます。

それが、非二元、生(せい)の源であり、分離感や頭での区別のない
すべてぶっ通し、ぶっ続きの世界です。


まとめると、「自分」だと思っているものは、様々な思考、観念、感情、身体
(のように見え、感じるもの)、感覚の集まりによって、そこから
ファントムのように生み出されたものに過ぎないのです。

つまり、まさにバーチャルリアリティだと言い換えることが出来ます。


これがわかると、自分を含めた世界が実は幻想であるということがわかり、
空観に認識がシフトするということが起こります。
(そのための方法やきっかけは、何も上のダイレクトパスの方法のみに
 限らず、人によって様々ですが)




(注:ダイレクトパスのアプローチや非二元の教えを
 自身の体験でもってわかったのではなく、頭で観念として採用してしまうことは
 非常に危険ですし、むしろ害になりますので、上に書いてあることを
 字面通りに鵜呑みにしないで下さい。あくまで、アプローチの一種であり
 方便として書いてあります。

 また、空観も一つの大きな節目ではありますが、そこがゴールではないため
 そこから現象世界に戻り、人間としてどう生きて行くか、という
 いわゆる「悟後の修行」や「自分の道を追求すること」(一生続くもの)こそが
 重要になるため、注意が必要だと感じていることも併記しておきたいと思います。)



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