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2015-09-25 (Fri)
欧米の非二元の教えにお世話になっていた頃、そして
実際に認識のシフトが起こってからも、しばらくの間
この自分というのを「思考と感情・体から成り立つ複合体」のようなものだと
感じていた(実際、このブログの前半は、そういったスタンスで書いていた)。

そして、この現象世界で現れているこの「私」は、いわば暫定的な
フィクションのキャラクター、ゲームの駒のようなものに過ぎないと
見なしていた。

だから、何が起こっても「全てはストーリー」で片付けられるし
自分が何をやってもそれはこの「キャラクター」がやっていることだから、
ただ起こっていることだから、と身軽に感じたりもしていた。

けれども、ある時から、これはある意味「逃げ」であると気がついた。


空性の悟りはそれはそれで素晴らしいものだけれど、
それが間違った方向へと行くと、この個人という存在に伴う
様々な責任から免れるための「逃げ」の手段となってしまうことがある。

何が楽かと言えば、正直、ずっと空性に留まったままで
自分を含むこの現象世界に起こること全てを空観で捉えていれば
この「自分」には何の責任も生じない(ように感じる)ため
何が起こってもへっちゃら、身軽で素晴らしい!ということになる。


けれども、それでは真理の一面をわかったに過ぎないし
生(せい)の源の多様な働きや現れを体験し、それを生きることは出来なく
なってしまう。


白隠禅師の坐禅和讃(教えて下さったMさん、ありがとうございます)に
こんな語句がある。

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし


これは、人間を含むあらゆる存在全てが仏である、という意味でもあるし、
また別の意味では、仏とは、仏だけとして存在出来るものではなく、
この人間という形があって初めて、それを通して仏の心も現象世界に現れることが
出来る、ということでもある。

つまり、仏がこの現象世界に現れるには、どうしてもこの人間というものが
必要不可欠になっているのだ。

仏、生(せい)の源というのは、姿形を持たない。

だから、その仏、生(せい)の源がこの世界に顕現するには
何らかの形をまとって現れるしか方法がない。


探求中、禅の公案で
「ダルマさんには、何故ヒゲが無いのか」
というものがあり、それに取り組んでいた時期があった。

「何故ないのか・・・と言われても、ダルマさんにはヒゲあるしなあ」
と思い、いくら考えても答えはわからなかった。

それがある日、シャワーを浴びていたら、ふと胸の中に光が爆発したようになり
その答えがわかった。

生(せい)の源には、何もくっつけることが出来ないのだ、と。

生(せい)の源は、無色透明で形がなく、そこに何かを貼付けたりすることは
出来ないのだ。
生(せい)の源、本質というのは、どこまでも形がなく、透明で、
つかみどころがなく、何もくっついていないものなのだ。


それがわかると、師匠は「これがわかったら、今度は逆の公案もありますよ。
マリア様は何故ヒゲもじゃなのか」と教えて下さった。

そう、今度は上の公案とは真逆で、生(せい)の源はどんな姿形としても
現れることが出来る、ということをこの公案を通してわかることが出来る。


つまり、仏、生(せい)の源というのは、それ自体では無色透明であり姿形ないもの
だけれど、それと同時に、ありとあらゆる姿形をとることが出来、
そういった形で世界に自身を表現して現れているのだ。
言い換えると、そういった形をとらないと、この世界に現れることが出来ない。

だから、

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

なのだ。


探求中というのは、そして認識のシフトが起こった後でも
ついこの自分という人間の存在を否定してしまいがちである。
私も、一時期、この個人という性質を出来るだけなくして透明でありたい、
ただ生(せい)の源の姿で在りたい、なんて思いを抱いていたこともあったけれど、
それは不可能なことであり、またそう在るべきではないのだと気がついた。

この私という人間、この個人を消してしまったら、その分、
仏の心も現れる「場所」がなくなってしまうのだ。
生(せい)の源、仏、仏の心が現れるには、どうしてもこの人間という形、存在が
必要なのだ。

そして、それはこの身体という形のことだけを指すのではなく
個人というものを形作っている思考、感情、性格、経験といった全ての要素を
含んでおり、仏の心、真理が現れるには、こういった「土台」「場」が
全て必要なのだ。

みんなみんな、そうなのだ。

だから、先日書いたように、それぞれの人が寿命が来るまで、
生(せい)の源、仏の現れであるこの人間という生(せい)を丸ごと精一杯
生き切ることが大切なのだと改めて気がついた。

それこそが、生命、真理へ最大の敬意を表すことでもあり
人間として生まれて来たが故の「使命」でもあるのだと感じている。


この個人の私というのは、何をするにしろ、この私が凄いのではなく、
この私を生かしている生命の源が凄いのだと言える。

けれどもその反面、私はこの「私」といった個人もがとても切なく
愛おしく感じるところがある。

自分の中にありとあらゆる感情が沸いて来ること、そして
他の人の中にも同じようにありとあらゆる感情が沸いて来ること、
こういった人間的な部分が、とにかく切なくて愛おしくて仕方がないのだ。

人間的な思考や感情、そういった「個人の部分」と
ありとあらゆるものが愛おしく感じる「仏の心」、
その両者の”コラボ”によって、この人間という存在を通して
様々な体験が出来、また真理が多種多様な形で現れていることに対する
洞察と理解が深まって行くのだと感じている。


だから、この人間臭い自分を否定する必要は全くないし、
「キャラクター」として切り捨てる必要もなく、
むしろ、生(せい)の源、仏の現れる貴重な「場」として
慈しみ、受け入れ、精一杯様々なことを体験していくことが大切だと
感じている。


もちろん、そうすると、自分という存在に責任を持つわけだから、
色々と大変なこともある。
けれども、そうすることによって、「空観」では体験出来ない、
この「人間と仏のコラボ」による、全てを含んだ
生命そのもの、存在そのものの歓びと美しさを体験出来るのものだと感じている。



| 生きるということ・生命 |
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