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2015-09-17 (Thu)
『白隠禅師 健康法と逸話』(直木公彦著)という本の中に、
「人は病気では死なない。寿命で死ぬのだ」
といったことが書かれてあるのを見て、衝撃が走った。

そうか、確かにそうなのだ!


思えば、生存率0%と言われた病気から奇跡的に完全復活した人もいれば
それほど大した病気ではないのに、あっという間に亡くなってしまう人もいる。

普段はそんな所に行かないのに、たまたまその日そこに行ったために
そこでの事故に巻き込まれて亡くなってしまった人もいる。
また逆に、そこに行く予定だったのに、急に予定が変更になって
危うく災難を免れて生き延びることが出来た人もいる。

そんなことを、主に身近な人の例などをもとに経験しながら
人間の生と死ということが、長い間、不思議で仕方がなかった。
一体、何がどうなっているのだろう。

私はこれまで、長い間慢性的な症状やいくつか病気をして来た。
一時期は、全く起きあがることすら出来ないような状態が続いていた時もあった。
そして、「こんな状態で、自分ではほとんど動けず、夫に心配や迷惑ばかり
掛けているのに、どうして私はまだ生きているんだろう・・・」なんて思いが
よぎったこともあった。


上の本で、「人は病気では死なない。寿命で死ぬのだ」という文を見た時
「ああ、こういうことか!」と以前の疑問が解けた。

どんなに心身ダウンしてしまっても、何度病気になっても
寿命が来ない限り、人は死なないものだし、死ねないものなのだ。

こんな、長い間、生(せい)に対して消極的で
あまっちょろく中途半端な姿勢でいた自分であっても、
生命の源、そして全体性にとってはまだ私といった存在があることが
必要なわけで、私にはまだやるべきことがあり、
それでずっと生かしてくれていたのだ。


師匠は、以前から、私の病気は必要があって起こっていることだと仰っていた。
そして不思議なことに、それは徐々に様々な洞察が起こるに従って
それが本当のことだったのだと実感するようになった。

また、師匠は当時なかなか治らないことに悩んでいた私に対し、
また自分の心が汚れているから自分は病気になっているのではないかと
自分を責めがちな私に対し、
「そんなレベルの低い教えを信じてはいけません」とたしなめられた。

そして、病気に関しては、これは「産みの痛み」のようなものだから、
今は辛くても、必ず上手く行くから、今はとにかく内面に目を向けて進むようにと
励まして下さっていた。

そして、万が一生きている間に病気を患っていたとしても
それは真理を生きることの妨げにはならない、と言い、
ある禅僧の話をして下さった。

その禅僧は、長い間病気を患い、床に伏していたそうなのだが
それでもその悟りの深遠さ、奥深さは並外れたものであったそうで
その話を聞きたいと、学びのために多くの僧が訪れていた、
ということだった。

つまり、病気といった「尺度」では、その人の在り方や状態を測れるものではなく、
また、病気だから真理を生きることが出来ないなどといったこともなく、
ただ自身の内面を見続け、進む道を行き、するべきことをして生きて行けば
それで大丈夫なのだ、と何度も励まして下さった。


精神世界の教えを中途半端に学んでしまうと、つい
「自分は病気だから、心が汚れている」とか
治ろうと頑張っている人に対し、「自分の心持ちが悪い」
「○○が悪いということは、××といった悪い心の現れ」
「それは悪い○○のせい」などと、
全体性を理解していない一面的な判断でもって勝手に判断し、
裁いてしまったりしがちだ。

私自身、内心でそんなことをやっていた時期があったし、また、
他の人から謂れのないことを言われたこともあった。

そのため、師匠は「そんなレベルの低い教えを信じてはいけない」
と、誰かが作り出した観念や知識をもとに、そのフィルターを通して
現実を見ることを厳しく注意して下さったのだった。


本当に必要な洞察は、自分の心の中から湧いて来るものだ。
また、誰かの言葉や教えから洞察が得られるとしても、
その言葉や教えというものに、自己の何かが感応して起こるものであって
結局は、自己の中から真実、洞察が得られるものなのだ。

そうでない外部の教えをそのまま鵜呑みにしてしまうと
真実が見えなくなってしまうし、自分の本来の在り方や、その状況に最適の
アプローチや方法、そして進むべき方向がわからなくなってしまう。

症状や病気といったことに関しては、自分の内面と繋がることにより
そこから新たな学びや洞察が生まれ、より豊かな生(せい)の体験が出来るように
なっているのだと気がついた。


何よりも、自分がこうして生きているということ、
生かされているということ、そこに全ての源を見ることが出来る。

どんなに辛い時でも、悲しい時でも、傷ついた時でも、
ふと見てみると、ここに「奇跡」がある。
つまり、どんな状態であっても、それでも自分は生かされ続けている。

それは何故なら、まだ寿命が来ていないから。
まだ生きて、するべきことが残っているから。

みんなみんな、そうなのだ。
まだ生きているということは、まだするべきことが残っているから、
まだこの世に必要だから生かされているのだ。

それでは、亡くなってしまった人は、もうこの世に
必要とされなくなってしまったのか、と言うとそうではなく
その人は、立派に今生での努めを果たし、与えられた生を全うした
とても立派な存在なのだ。

どんな人であっても、生まれてから亡くなるまで
楽しいことや嬉しいことの他に、数多くの辛いことや悔しいこと、
腹を立てたこと、悲しいことなど、たくさんのことを経験する。
そういった経験をし尽くし、役割を果たして寿命によって亡くなる。

そういった意味で、亡くなった人の人生と生き様を想うと
自然と胸が熱くなって来る。
そして、よく立派に頑張られたなあ、生き抜かれたんだなあ、と
思わず頭が下がってしまう。


まだ生きている人は、まだやるべきことがあるから
生かされているのだ。

その生命の贈り物に気がついて、それを受け取ることが出来たら
今この瞬間から、生きるということ、人間として喜怒哀楽様々を
経験すること、そのどれもが愛おしく、歓びに満ちたものになるのでは
ないかと感じている。


最後に、冒頭で挙げた本の中に出て来る、白隠禅師の内観法を紹介したいと思う。
(様々な面で不思議な効果のある、お勧めの方法)


横になったまま、全身の力を抜いて、
下のように静かに唱えながら、下腹部に力を満たし、その意味を体で感じて行く。

 この気海丹田腰脚足心、まさにこれ、わが本来の面目、
 面目なんの鼻孔かある。

 この気海丹田(腰脚足心)、まさにこれ、わが本分の家郷、
 家郷なんの消息かある。

 この気海丹田(腰脚足心)、まさにこれ、わが唯心の浄土、
 浄土なんの荘厳かある。

 この気海丹田(腰脚足心)、まさにこれ、わが己身の弥陀、
 弥陀なんの法をか説く。



これを繰り返し繰り返し唱えていると、そのうち
下半身と両手がじんわりと温かくなり、また何とも言えない
ウットリとした幸せな気持ちになって来て、じんわりと生命の歓びに包まれ
気がついたら寝てしまっていることが多い。


| 生きるということ・生命 |
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