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2015-09-08 (Tue)
前回の記事を書き終えてから、このブログのタイトルである
「ポッカリ空っぽ、でも満ち満ちている」という表現に対し
更に色々とまとまって来た。

motoさんからメールを頂く前は、自分で意識の上で自覚出来ていたものは
全てが幻想であり、空(くう)であるけれど、
それでもこんなにも何か、生命の活き活きしたものに満たされている・・・

といったものだった。

しかし、motoさんのおかげで、その満たされている感覚、
「満ち満ちている」といったものが慈悲の部分でもあると気がついた。


こうしてみると、この全てに満ち満ちている生命の現れと力、
これ自体が慈悲であり、無条件の愛の現れなのだと、
改めて深く繋がったように感じる。


以前にも触れたことがあると思うけれど、私は探求当初は愛といった教えに傾倒し、
その後は禅の「ドライ」なアプローチで取り組んでいた。
その中で、突然阿弥陀様といったものへの感応が起こった。
けれどもしばらくしてからは、再び慈悲といったものも捨て、
今度はひたすら自身のありのままの経験を検証すべく
再びドライなダイレクトパスに取り組んで行った。

実は、ダイレクトパスに取り組んでいた間、
私は愛ということはもちろん、今度は慈悲といったことも
嫌いになっていた。

当時、チベット仏教など、慈悲の大切さを説く文章を目にすると
「慈悲が大切、大切って押し付けがましいなあ」と
非常に息苦しく感じてしまっていた。


こんな風に、私は道徳にしろ、愛にしろ、慈悲にしろ、
それらに没入している時期と、それらを毛嫌いし
非常にドライなアプローチの方に徹する時期との
両極端に振れることが多かった。


こうして見てみると、愛や慈悲といったものも
数日前に書いた道徳に関するものと同様に、
本来は生命の自然な働きとして湧き出て来る類いのものであり
無理矢理に実践するべく押し付けられるものではないということに気がついた。

だから、そういったものを「押し付けられている」と感じると
反発心を感じ、息苦しく感じてしまったのだろう。


愛や慈悲といったことは、外側から強制されて生まれるものではなく
生命の働きとして、自然な形で自ずと内から湧いて来る、そんな類いの
ものだったのだ。
(ただし、ダライ・ラマ14世は、人々に「空観」を説くことよりも
「慈悲」を説く方が安全であるという理由から、不特定多数の聴衆に対しては
特にこの「慈悲」の側面を強調しているということを知り、この奥深い配慮には
非常に胸を打たれ感動した。本当に素晴らしいと思う)


全て空(くう)であり、ドライであると同時に
愛や慈悲に満ち満ちていて、どこまでも穏やかで温かい・・・


ああ、生命の源というのは、そして世界というのは
こんなにも素晴らしく美しいものだったのだなあ、と
改めて胸が一杯になる。


探求中ももちろんそうであったけれど、探求が終わった今も
私は様々な方のおかげで生き、生命の素晴らしさを体験することが
出来ているのだなと、しみじみと感じている。

私はこれまで、直接出会った方々のみを「お世話になった」
「支えられた」と感じることが多かったのだが、
こうして考えてみると、物理的に会ったわけではないけれど、
メールやネットを通して繋がる方々、そして
古い時代の先人たちの逸話を始め、様々な覚者や著者の本、
そういったもの全てに同じ力、影響力でもって
お世話になり、支えられていたのだと気がついた。

本当に、全ては時空を超えて繋がっているのだ。
自分は生命によって、そして他の方々との繋がりによって生かされているのだと、
改めてそのありがたさを実感している。



| 感情・人間らしさ |
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