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2015-09-07 (Mon)
精神世界に興味を持ち始めて以降、そして最近になって
「山を下りる」ことにするまで、正直言うと私は道徳を毛嫌い
していた。

長年の間、道徳を守り、出来るだけ「正しい」生き方をしようと
努めていた。

けれども、頑張れば頑張るほど自分の至らなさが余計に目について
自分が悪い人間に思え、ただ苦しくなるばかりだった。


道徳を守って正しく生きれば幸せになれる、この生き辛さから
救われる、と信じていたのに、実際は真逆だった。

そして、ある時期から精神世界に足を踏み入れ、
観念や信念などについての教えに触れると、
今度はそれまでの反動からか、一気に道徳というものが嫌いになった。

「そんな人間が頭で作り上げた決まり事なんか守る必要はない。
バカバカしい」と思うようになっていた。

そして、「いつか悟ったら、自分は道徳や社会的慣習などといった
くだらないことには縛られず、自由人として好きなように振る舞うんだ!」
なんて思いを巡らせていた。


認識のシフトが起き、全てが幻想だとわかると
確かに素晴らしい解放感を感じ、また自由になったのを感じたのだが
それでも、それまで想像していたような「よし、好きなように振る舞うぞ!」
なんて思いは微塵も湧いて来なかった。

全てが幻想であり、空(くう)であるけれど、
それでもこんなにも何か、生命の活き活きしたものに満たされている・・・

そう感じられるため、以前に思いを巡らせていたような
「好き勝手に振る舞う」や「何かに縛られないで生きるんだ!」といった
意図的な思いは逆になくなってしまっていた。
そんなことはむしろどうでも良く、ただありのままに自然にあれば
それで満足、といった感じだった。

そして、以前のように、わざわざ「縛られないで自由に生きるぞ!」
といった思いは、かえって何かに抵抗していることの現れであって
本当に自然に心の中から湧いて来た本来の在り方ではないものなのだと
気がついた。

それでも、まだ道徳や社会的ルールや慣習といったことには
あまり良くないイメージが残ったままだった。


それがある時、小説『陰陽師』シリーズを読み始めてから
そのイメージが大きく変化し始めた。

小説では、安倍晴明よりも源博雅の方が官位が上である。
しかし、二人は仲が良いため、普段は呼び捨てで呼び合っており
また、言葉遣いも敬語ではなく、いわゆる「タメ口」で話している。

それが、誰か他の人が一緒にいる場合は、晴明は博雅のことを
「博雅様」と呼び、敬語で話しかける。

これを読んだ時、「何て美しいんだ!」と、そこに美を感じた。


昔だったら、「誰かがいる時といない時で態度を変えるなんて
何て人だ。人は裏表なく、一貫した態度であるべきだ」とか
「真理をわかっているなら、そんな敬語とか社会的慣習など無視して
他の人がいようがいまいが、いつでもタメ口でいいじゃないか」
などと思っていただろうと思う。

それが、とにかく「美しい!」と感動した。

当初、自分が何に対して美しいと感じたのかすら分からなかったのだけれど、
徐々に心の中で感じているものと頭が繋がり、何に対して感動したのかが
自分の中でまとまって行った。

第三者がいる際、官位が上の博雅に対して「様」づけで、更に敬語で話すのは
まずは官位といった社会的ルールを尊重することであり、
ひいては目の前の第三者に対しても敬意を示すことである。

いくら自分は真理がわかっているからといって、
「自分は官位などくだらない現象世界のルールには縛られない」
などと言って、それを無視すれば、第三者の人に不快感を与えてしまう。

また、実際には官位が上の博雅の顔を第三者の前で立てる意味でも
あえて敬語で丁寧に話しかけている。

そういった配慮と心遣いが感じられ、それを「美しい!」と
感じたのであった。

そうしてそこから、道徳や社会的ルールといったものの
本来の意義を感じ取ることが出来るようになった。


近年では、特に若い世代では道徳や社会的ルールといったものは
古くさくて押し付けがましく、また息苦しいと感じる人が多いと思う。

冒頭に書いたように、私自身、もはや道徳という言葉すら聞きたくないほど
道徳を嫌いになっていた。

でも本来、道徳とは無理矢理人を縛り付けるためのものというより、
人間として生きる上で、本来であれば自然と沸いてくる他者への敬意を
表しているのものなのではないかと気がついた。

人と人が関わり合うには、そして円滑な人間関係を築くには
お互いに敬意や配慮を示す必要がある。

その敬意や配慮を示すためのものとして、様々な社会的ルールや慣習が
出来上がって行ったものだと思われる。

今の時代、それらの多くは形骸化されてしまっているけれど、
元々は相手への敬意や配慮あってのことだったのだと、
その意味をわかっての上で社会的慣習といったものに接してみると
また違った角度で感じ、捉えることが出来、
以前の悪いイメージが徐々に消えて行った。

例え全てが幻想であり、そんな決めごとは観念だから無視すれば良い、
自分は何をやっても自由だ、とは言っても、人間として生を受けた以上
他者と関わり合いながら、この現象世界でこの現象世界におけるルールに従って
生きることになる。

いくら「自由だ!」と言っても、他者に不快な思いをさせれば
人間関係は上手く行かなくなる。


そもそも、社会的なルールや慣習は、誰かが「こうしよう」と決めたというより
人々が生活する中で、自然とお互いが気持ちよく交流出来るよう、
他者への敬意や配慮から生まれたものだと感じる。

そして、その社会的ルールや慣習は、時代によっても文化によっても
異なる現れ方をする。

例えば、誰かの家にお呼ばれされて訪問する際、日本なら約束の時間の5分前、
または遅くとも、時間ピッタリには着くのが一般的だ。
しかし、私の主人の国ではその辺は結構曖昧で、かなり早く行ったりすることも
珍しくない。
そして、私の第二の祖国の方では、むしろ10分〜15分ほど
遅れて行くのがマナーになっている。

これら3つの国では慣習がバラバラだけれど、それでも
それぞれ相手に対する配慮の上でのものである。

まず日本では、あまりに早く着いてしまうと、
ホスト側が準備で忙しいだろうから迷惑になるし、
また遅れて行くのでは、相手との約束を軽んじているようであるため
相手との約束を重要なものとしている、との敬意を表す意味で
約束の時間のほんの少し前か、時間ピッタリに着くような慣習が
出来上がったのではないだろうか。

それに対し、約束の時間の10分〜15分ほど遅れて行くという慣習は
そこで暮らしている人々にとっては、時間ピッタリに着いてしまうと
ホストが準備に追われてストレスになりかねないため、
余裕を持たせてあげて、あえて少し遅くに着くように、との配慮が
なされている。

それでは、私の主人の国のように、かなり早くに着いたりする場合はどうか?
一見、自分勝手ではないか、とも思える。
しかし、早く着いたら着いたで、ホストが一人で準備に奔走しなくて済むよう
一緒に手伝ってあげ、その手伝いの時間を一緒に楽しむ、という
精神がある。

日本であれば、「完全に準備が整ったきれいな状態で出迎え、お見せしたい」
と考えるのが一般的ではないかと感じるのだが、
主人の国では「一緒にやるのが楽しい」といった感じで、
準備や形式といったことにはあまりこだわらない傾向がある。


もちろん、上に書いたのは一般論であって、
個々人の性格やお互いの関係の親密度によっても変わってくる。

けれども、社会的慣習を単なる古くさいバカげたもの、
人々を縛り付けるもの、と見るのではなく、
そこに本来備わっていた、他者への敬意や配慮といったものを感じ取ると
その想いの美しさを感じ取ることが出来ると感じている。

もちろん、既に形骸化してしまっていて今では無意味になっている
慣習もある。
そういったものは、「こんなの、もう無意味ではないか?無駄ではないか?」
と感じる人々が増え、自然と消えて行く。

しかし、いまだ残っているものに関しては、
まだそれが何らかの役割を果たしているから残っているわけで
多くの場合、それなりにそこに意味や美を感じることが出来る。

そうしてみると、この現象世界という制限やルールの多い世界の中で
生命の美しさや人の心の温かさといったものをより感じながら生きることが
出来るものだと感じている。

空観の「空っぽ」の部分だけではなく、「満ち満ちている」部分をも
体感することによって、この現象世界を成り立たせている生命の源と
その様々な現れを存分に楽しむことが出来るものだと感じる。


道徳ということに話を戻すと、道徳というものも
本来、人間としての生命の働きが自然に機能しているのであれば
意図せずとも自ずと心の中から沸き上がって来る類いのものばかりであると
感じる。

例えば、「お年寄りや体の弱い人には席を譲る」「困っている人を助ける」などは、
人が本来持っている自然な心だと言える。

それが、例えば、周囲の人目を気にして席を譲るのに躊躇してしまう、
面倒な事件に巻き込まれたら困るから、困っている人を見て見ぬフリをしてしまう、
といった、近年よくある傾向は、ある意味
生命の働きが本来あるべき自然な状態になっていないことに
原因があるような気がする。


いつだったか、どうしても食の細い子どもがいて、その子が食べないので
困っている。何とか無理矢理食べさせようとするのだが、そうすると
余計に食べないのでどうしたら良いか、という相談事について書かれていたのを
目にしたことがあった。
そういえば、私も小さい頃から食が細く、また食べるということが辛かったため
この相談に対する回答には興味が湧いた。

そこでの回答は、本来人間は生命の働きが正常であれば
自然と適切な食欲が沸き、健康維持のために必要な分を欲するものである。
従って、食べたがらない子ども、または逆に食べ過ぎる子どもというのは、
生命の本来の働きが上手く機能していないことを表しており、
無理矢理食べろ、またはもう食べるな、と強制するのではなく
正常な食欲が自然と湧き出るのを妨げている要因に働きかけることが
必要、というものだった。

これを読んで、「そうか、確かに」と深く納得するものが
あった。


道徳に関しても、これと似たようなことなのではないかと感じる。
本来、道徳といった外からの強制によって何かをするべき内容なのではなく
生命の働きが自然なものであれば、自ずと内から湧いて来るような内容の
ものなのではないだろうか。

そういった本来の生命の働きを抽出し、言葉としてまとめあげたものが
道徳なのではないか。

そうであれば、道徳といった外側からの権威によって人々を強制するのではなく
人の心が自然な生命の働きによって動けるよう、本来の姿に戻してあげることが
重要なのではないかと、そんな風に感じる。


こんな風に道徳や社会的慣習について自分なりに感じていることを
書いてみたけれど、それでは私は道徳や社会的慣習に精通しているかというと、
とてもそんなことはなく、偉そうなことは全く言えない。

けれども、最低限、現象世界で生きる者として、
自ずと湧いて来る、他者に対する敬意と配慮は大切にしたいと思っている。



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